​ニューヨークでも、毎年結構な雪が降る。その度に都市の交通は麻痺するのだが、東京でも「多くの通勤客が駅構内に入ることが出来ずに、長い列をなしている」という朝のニュースを聞き、「こんなにも雪に弱かったのか」と驚かされた。

 

 夕方という時間帯もあってか、新宿駅はやや混雑していた。数本の列車を見送ることにしたのは、以前、日本の友人から「東京で列車に乗る時には、両手を挙げろ」とメールが届いたことを思い出したからだ。ここ数年、鉄道各社が女性専用車両を増やし、誤って通勤時間帯にこの車両に乗り込んでしまった時には、濡れ衣を着せられない為にもこの行為が必須だというのだ。

 

 「冗談だろう」と思っていたが、「あの一駅がどんなに長かったかわかるか」と、女性陣から向けられた白い目の様子を語る友人の表情を見てからは、僕も女性専用車両になる時間帯以外でも、このステッカーの貼られた車両には怖くて乗れなくなった。

 

 「ニューヨークに痴漢はいない」、在留邦人からも、また、アメリカ人からもそう聞いていた。実際、ニューヨークのメトロの混雑率は東京よりもはるかに低いし、日常から”ハグ”と共に挨拶を交わす文化であるだけに、他者との接触には気を付けているであろう、という印象もあった。しかし、列車によっては人々が車両の内側まで詰めてくれない(扉付近に集中する)という理由もあってか、通勤時間帯はかなり密着することもある。こうした時、一部のニューヨーカーは無理をせず、次の列車が来るまで待つ。では、ニューヨークには、本当に痴漢がいないのかと言えば、そんなことはない。6-7年前のことだが、友人のエミーは、動きが取れなくなった車内で男性に下半身を押し付けられるという被害に遭っている。それ以前からも、痴漢被害を受けていたそうだ。また、昨年末には、身体に触ったり、盗撮するなどのメトロ内に於ける性犯罪が増加傾向にあることをニューヨーク市警が発表している。

 

 両手こそ挙げなかったが、周辺の乗客をよく確認し、利き手はしっかりと手すりを掴んで目的地までの時間を堪えた。

 今回観た映画は、『袴田巌 夢の間の世の中』。

 

 1966年、静岡の味噌製造会社専務一家4人が殺害され、放火されるという事件が発生した。当時この会社に勤務していた”元プロボクサー”(日本フェザー級6位 / 年間19戦日本最多記録保持者)の袴田さんが逮捕され、拷問による取り調べによって自白に追い込まれてしまう。世にいう“袴田事件”だ。“ボクサー崩れ”という偏見に基づく捜査だったのではないかとボクシング界も動き出し、裁判では一貫して無罪を主張したが死刑が確定してしまう。その後、再審請求を続け、2014年3月に静岡地裁が再審開始を決定した。同日、「証拠は捏造の疑いがある」、「これ以上の拘留は耐え難いほど正義に反する」として、48年振りに自由の身となった。

 

 この映画は、釈放直後から浜松の実姉、秀子さんと暮らす袴田さんの日常を追ったドキュメントだ。監督は、袴田さんの行き来する妄想と現実の世界を記録すると同時に、秀子さんの袴田さんへのコミュニケーションの取り方にもカメラを向けた。「冤罪にされてたまるか」、そんな一心で共に戦い続けてきた秀子さん。彼女の誕生日には、多くの仲間が駆けつけてきた。「こんなお祝いをしてもらったのは初めて」、そう語る彼女もまた、48年振りに自分の人生を取り戻しつつあるのだろう。いまなお、収監時同様にひたすら家中を歩き回る袴田さん。その姿は失われた時を思わせるが、カメラは時折起こる拘禁反応(強制的に自由を奪われた人が示す人格の変化)状態も映し出す。ところどころに獄中で書かれた日記や手紙の言葉が盛り込まれ、かつて袴田さんと同じ拘置所に収監されていた無罪の“仲間”たちと語り合う姿も見られる。WBC(世界ボクシング評議会)からは、“名誉チャンピオンベルト”が贈呈され、リング上でガッツポーズをとった。それら袴田さんの記憶が、時空を超えて観る者に突き刺さってくる。

 

 ニューヨークでも、たびたび「冤罪」のニュースを目にする。1990年、メトロ駅構内に於いて、少年たちによる殺人が発生し、当時18歳のJohnny Hincapieがその一人として逮捕された。25年間に渡って収監されていたが、昨年行われた再審で有力な証人が現れ、晴れて無罪となった。

また、1989年、友人を銃で射殺したとされたJonathan Flemingが、主張し続けてきた携帯電話の請求書によるアリバイが確認され、24年間に及ぶ収監から釈放されている。アメリカでは、その保証金額も大きく取り上げられた。ニューヨーク市は彼に対し、$6.25ミリオン(約7.8億円)を支払うことで和解したとされる。

 一昨年にも、1989年にセントラルパークをジョギングしていた女性を襲ったとして、10代の黒人とラテン系の男性5人が収監され、後に別の容疑者が浮上した冤罪事件として、ニューヨーク市は5人に対し、$40ミリオン(約41億円)を支払うことで和解したとのニュースがあった。

 

 日本ではどうなっているのか。

 

 刑事補償法(第四条)によって、冤罪被害者に対し、「一日千円以上一万二千五百円以下の割合による額の補償金を交付する」とされる。アメリカの補償額とは比較にならない数字だ。弁護費用や、支援団体へのお礼だけを考えても、到底、妥当な額とは言えないだろう。また、無罪が確定した人に対し、マスコミがその補償金の使い道や釈放後の生活を干渉、批判したという歴史もある。

 

 「冤罪」は、その事件内容に関わらず、当人と同時に身近な人の人生までをも奪ってしまう。そのような悲劇を繰り返さない為にも、捜査は勿論のことだが、裁判員制度に示唆される冤罪の可能性も考慮し、更に慎重な審理が行われることを願うばかりだ。

 

 世界の中でも再審請求の承認率が極めて低いといわれる日本。やっとのことで48年の収監から釈放された袴田さんだが、検察庁が即時抗告した為、現在も死刑因のレッテルは貼られたままだ。

 

 この原稿を書いている最中、「痴漢の疑いをかけられた男性が、線路に飛び降り車両と接触した」というニュースが流れた。痴漢冤罪に遭わない為に「男性専用車両」を切望する声も多いと聞くが、スペインやニューヨークに於いて、心の性別が異なる同性からの被害を受けそうになった経験がある僕は、そのような車両に乗るにも勇気が必要だ(苦笑)。

 

2016.1.20

 先日、某デパートに店舗を構えるメガネ店に、母の“リーディンググラス”を作りに行った。いわゆる老眼鏡のことだが、近年はパソコンやスマートフォンの長時間使用による若年層の老眼が急増しているようで、英語表記にすることでとても馴染み易いイメージになったと思う。

  事前にウェブサイトで商品と価格を調べ、本社にも品揃えを確認するなど、母を連れて何件ものメガネ店を見て回らなくても済むように慎重に店を選んだ。渡邊さんという方が担当になり、すぐに検眼がはじまった。僕は検眼機に近いシートに座り聞き耳を立てていたが、丁寧な説明と、母の話にもきちんと受け答えをしてくれている様子に、ホッとした。学校の健康診断によって、小学生の頃からメガネを掛ける羽目になってしまった僕は、これまでにかなりの数の眼科医やメガネ・コンタクトレンズ店を訪れた経験があり、そこでたびたび残念な思いをしてきたからだ。フレーム選びの際にも、渡邊さんの的確なアドバイスがあり、決まったら近くの店員さんに声をかけるようにとのことだった。しかし、母はこのタイミングでメガネとは関係のない話を切り出した。このような量販店の店員さんは忙しい、「面倒くさい客だ」「迷惑だよ」と思ったのだが、すぐに母が話し出した理由に察しがついた為、それを遮ることはしなかった。

 

 「家の中で気軽に使いたいから何でもいい」と言っていたはずだったが、実際には掛け心地か、デザインか、散々悩んだあげくに母はフレームを選び出した。すぐ近くに他の店員さんもいたが、渡邊さんの手が空いた隙にフレームを渡すように母に促した。デパート内で時間を潰し、仕上がり予定よりもやや早めに店に戻った。すると、渡邊さんが母のところまで来て、「すみません、お渡し出来るのは予定時間と同じ頃になってしまいます」と知らせてくれたのだ。メガネの掛け心地を確認する際にも、座っていた母の目線まで身をかがめ最後まで誠意の感じられる接客だった。

 

 店を出ると、すぐに母から渡邊さんの対応への言葉が飛び出した。僕も、一時帰国ごとに感じる日本のサービスの変化が気になっていた為、帰路はこの話で盛り上がった。

 

 ここ数年、滝川クリステルさんの国際オリンピック委員会総会時でのアピールのお陰なのか、ニューヨークでも日本の“おもてなし”が話題に上る。武士道の精神と共に、日本人の美徳として誇りにも思うが、いつの頃からか、“おもてなしの心”が込められているはずの日本の“接客”イメージは、コンビニエンスストアー店員の態度の悪さや、高級料亭の食べ残し料理使い回し事件など、多くの業界からのサービス低下を嘆く声によって、形ばかりになりつつあるのではないかと感じていた。ただし、コンビニエンスストアーに於いては近年そのような印象はなく、利用者の“期待し過ぎ”という問題もあるのかも知れない。

 

 初めて訪れたヨーロッパの店で、当時の日本とは異なるその様子に驚かされた。どの店に入る際にも、互いに「ハロー」と挨拶をし、買い物をせずに店を出る場合でも「サンキュー」と笑顔で言葉を交わしていたからだ。実に心地よい習慣だと感じた。ニューヨークの衣料品店などでも、「お手伝い出来ることはありますか?」と店員さんが声を掛けてくることが多いが、これに対し、「大丈夫です」「見ているだけです」と返事をすれば、その後は放って置いてくれるので、「とても快適だ」と友人と話すことがある。

 こんな出来事に遭遇したこともあった。ある日、マンハッタンのカフェで友人と待ち合わせをしていると、彼女は新調した真っ赤なフレームのメガネを掛けてきた。小柄でやや丸顔の彼女に、そのメガネはとても良く似合っていた。一番小さいトールサイズ(アメリカにはショートサイズがない)のコーヒーを注文すると、そのカフェの店員さんは、「素敵なメガネね、あなたにぴったりよ」「グランデにしといたわ」と、サイズをひとつ大きくしてくれたのだ。世界展開しているシアトル発祥のカフェであり、日本では考えられないことではないだろうか。

 

 またある夏の日のこと、お気に入りのブランド店でサングラスを購入しようとすると、店員さんにソーシャルセキュリティーナンバー(注1)所有の有無を尋ねられた。ニューヨークには、このナンバーを告げるか、学生証を提示する(または会員になる)ことで、その場で15% 程度の値引きを受けられる店が幾つも存在する。残念ながら僕はこのナンバーを持っていなかったが、彼女は、「特別ね」と言って自身のポケットから何かを取り出して値引きをしてくれたのだ。

 

 一方で、こう語る友人もいる。「呆れてしまうのは、ドラッグストアなどの店員が、携帯電話で家族や恋人と話をしながら平然と接客することだよね。人種差別による低賃金の為に、怠惰になってしまった一部の人たちの何でもありの対応かも知れないけれど...」。確かに僕にもこのような経験があり、複数のレジがある店では気持ちの良い買い物をする為にレジを選ぶこともある。

 

 多種多様な人種が生活しているニューヨークでは、接客のあり方も様々で、残念な思いをすることもあるのだが、非常識なお客さんがいることも事実であり、「色々とあるだろう」という思いからかそれに慣れてしまい、むしろ微笑ましい光景に巡り合う確率が日本よりも多いような気がしている。

 今回、母と共に訪れたような流行りのメガネ店の評判をインターネットで調べてみると、「店員の知識や態度、そして商品もその価格レベルであり、お奨め出来ない」という書き込みが実に多い。そもそも、検眼については眼科で処方箋をもらうべきだという考えがあるが、たとえ視能訓練士や認定眼鏡士であったとしてもそのやり方に疑問を感じることも多く、結局は「人だよなぁ」と僕は思っている。無論、初めてメガネを作る人がこのようなリーズナブルな価格の店を利用する際には、事前にメガネについての勉強をしておくことが望ましいだろう。しかし、半年や一年間の保証期間中には無料でレンズを交換してくれるなど、気軽に使うメガネを求めるならば、実に素晴らしいシステムであることに違いはない。

 

 帰宅後、このメガネ店の店名とデパートの住所を書いたメモを母に渡した。僕がまだ小学生の頃、多分同じデパートだったと記憶しているが、食品売り場の店員さんの対応に感動した母が、店長さん宛に葉書を書いていたことを思い出したからだ。

 

 母は、「駄菓子屋は商売ではなく、しつけの場だ」と語る老師とも呼ぶべき方(駄菓子仕入れ先)との出会いによって、その方が亡くなるまで家の片隅で駄菓子屋を営んでいた。きっと、食品売り場で感じた“おもてなしの心”も、その教えと同じように一通の葉書から広がって欲しいと願ったのだろう。そんな母が、検眼を担当してくれた渡邊さんにした話とは、苗字の“ワタナベ”に複数存在する「邊」の異体字についてだった。その夜、“リーディンググラス”を掛けて何度もその文字を辞書で確認しながら葉書に向かっている母の姿があった。 

 

2016.3.7

 

(注1)ソーシャルセキュリティーナンバー : 徴税の為の個人特定を目的に発行され、現在はアメリカ国内での国民識別番号、身分証明番号にもなっている。

 「アリが亡くなった」、というニュースを聞いて、プロレスファンの方ならば、アントニオ・猪木がリングの中央に寝転んだままの状態でキックを放ち続け、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」とも言われた身長190cmものアリの動きを封じ組めた、あの名シーンを思い浮かべることだろう。

 しかし僕は、子供の頃によく遊んでくれた親戚のおじさんの訃報を知った時のような、何ともいいがたい気持ちに襲われ、頭の中は真っ白になった。

 

 僕の父は、アントニオ・猪木が率いる「新日本プロレス」の大ファンであった。そのため、幼年期の頃からよくプロレス中継を一緒に観ていたし、新日本プロレス全盛期の象徴のように日本に呼び寄せられたアリに対して、特別な親近感を覚えていたようだ。そして、少年時代の僕のテーマ曲の一つとも言えるアントニオ・猪木の「イノキ・ボンバイエ」、あれはアリが自身のテーマ曲である「ARI BOM BA YE / アリ・ボンバイエ」を “格闘技世界一決定戦” 後に猪木に贈ったとされているのだ。

 

 一方、後に知ったことではあるが、ベトナム戦争時の徴兵拒否により、長期に渡って政府と闘ったアリへのリスペクトのような想いも影響しているだろう。

 そのアリに、渡辺澄晴氏(当協会名誉会長)は会ったことがあるというのだ。1962年9月15日、当時ニコンに勤めていた渡辺氏は、ニューヨークに赴任した。間もなく、シカゴで世界ヘビー級チャンピオンのフロイド・パターソンと、チャールズ・ソニー・リストンとのタイトルマッチが行われることになり、渡辺氏は特設リングの真上に5台のカメラを設置するという仕事の指揮を取った。試合は、あっという間で、挑戦者のリストンが、チャンピオンのパターソンを1ラウンドでリングに沈めた。

 

 2年後の1964年、そのチャールズ・ソニー・リストンは、モハメド・アリに王座を奪われてしまう。そして、アリは、アントニオ・猪木との「格闘技世界一決定戦」の為に、1976年に来日した。

 この時、渡辺氏の周辺から、「アリを会社に招待して、ニコンのカメラをプレセントしよう!」という話が持ち上がった。「3億円のファイトマネーのアリが、来るとは思えない」という異論もあったのだが、それに反してアリ側はあっさり快諾。アリがニコンのファンだった、との話もあるが、当時のアメリカでニコンがどれだけの評価を受けていたのかが伺い知れる出来事だ。そして、ニコンカメラの組み立て工場へアリを招待することが決まると、社員たちはパニック状態になったという。

 

 いまでも、試合前のアリと猪木の記者会見シーンをよく覚えているという父だが、何と僕が生まれた時にも、自宅の居間でプロレス中継を観ていたらしい。それは、ジャイアント馬場の「16文キック」が炸裂した瞬間だったというが、まさか、僕の名前の由来は16 “文” キックではないと信じたい。

 

2016.6.7

ニューヨーク物語30 棚井文雄

モハメド・アリと渡辺澄晴と僕の三つ目の坂

 

ニューヨーク物語29 棚井文雄

駄菓子屋とおもてなし

 

ニューヨーク物語28 棚井文雄

あの空の下で

ニューヨーク物語 

プロジェクトオーナーの写真家・棚井文雄氏が、2011年から  (社)日本写真作家協会広報誌に掲載してきました「ニューヨーク物語」を当サイトで引き続き連載いたします。

​- 2016 -

© 2016 渡辺澄晴プロジェクト実行委員会

   Committee of Sumiharu Watanabe Project