現在、僕が作品制作に参画しているアーティストのSanaeさんから、「友人でバレリーナの貴子さんと、そのお母さまの照恵さんが日本から遊びに来ているので、ぜひ紹介したい」と言われていた。しかし、その機会なく貴子さんは帰国されてしまった。

 

 バレエと言えば、我々JPAには、その世界では言わずと知れた写真家、飯島篤氏(名誉会員)がいる。日本人バレエダンサーとして初めて国際的に活躍した、 ”世界のプリマ”森下洋子さん、その多くの写真集は飯島氏の撮影によるものだ。かつて、僕がJPAの理事になったのも飯島氏の存在が大きく影響しており、氏の言葉と、あの人柄をなくしてこの仕事をすることはなかったであろう。僕自身は、これまでバレエとの関わりは少ないが、以前、フラッシュライトによって演出(注1)されたヨーロッパのバレエ公演や、ニューヨークに於いて、アメリカン・バレエ・シアターのプリンシパルでもあった、ホセ・カレーニョのポートレイトを撮影したことがある。

 

 Sanaeさんに飯島氏のことを話すと、先日、お母さまの照恵さん(バレエスタジオ代表)と共に僕のアパートを訪ねてくれた。話を聞くと、照恵さんは飯島氏が撮影した迫力ある森下洋子さんの姿に感銘を受け、そこに(森下さん同様に)小柄な自分の姿を重ねていたという。飯島氏の写真は、若き日の彼女の支えとなっていたのだ。また、お嬢さんの貴子さんの舞台を飯島氏の元で学んだ写真家が撮影したこともあるそうだ。この話をきっかけに、僕たちは人生論から政治・社会問題まで様々な話題で盛り上がることとなった。照恵さんは子供の頃、バレエの稽古が出来ない環境にあり、窓からレッスン風景を見つめるだけの日々が続いた。やがて、彼女の情熱を知った兄弟やバレエ教師のサポートもあって、努力を重ねながらこの道を突き進んで来た。欧米での研修経験も多く、世界をまたにかけたその人生は波乱万丈だ。それは、発する言葉からも感じられるほどのあり余るパワーにもよるのだろう。

 

 「一緒に写真を撮りましょう」、そう言われて照恵さんの隣に並ぶと、彼女は腕組みをすると同時にスッーと片脚を引き上げポーズを決めた。僕がその真似をすると、「同じポーズをしてはダメ」と指導が入った。もっと背筋を伸ばして!とも(笑)。当然といえば当然であり、僕が語るにはおこがましいが、絵作り、モノの見せ方(表現)を熟知している。デジタル化によって、よりハイブリッドなメディアとなった写真、それによって進化せざるを得なくなった写真作家の生き方。こうした異なる世界の「見せ方」の中に、これからの写真作家のあるべき姿のヒントが隠されているかも知れない。

 

(注1) カメラのフラッシュのような強い光を点滅させ、発光した瞬間だけ舞台を浮かび上がらせる。迫力のある衝撃的な演出を生み出す。

 

2015.1.30

 照恵さん(ニューヨーク物語22)からの誘いで、絵描きの友人と共に貴子さんが演じた『ジゼル』のDVD鑑賞のため、滞在先であるタイムズスクエアのアパートにお邪魔した。その後、大雪の中、Sanaeさんが参加するパフォーマンスショーへも足を運んだ。

 

 しかし、何とパソコンの調子が悪く、音が出ない上、飛び飛びの映像で『ジゼル』を観る羽目となってしまった。それでも、この舞台演出を行った照恵さんの解説によって、バレエへの世界観が変わっていく感覚を覚えた。

 

 写真の世界に於いて、写真作家の行為は被写体の光と陰(ハイライトとシャドー)をフィルムを通じて反転(ネガ)し、さらに暗室での現像で化学反応させた銀の粒子によって一枚の紙の上に表現される。物質を他の物質に(印画紙に焼き付ける)置き換える行為である。

 

 バレリーナの中西貴子は、『ジゼル』という被写体(対象)を自らの肉体に投影し化学変化させ、それを舞台の上に焼き付けるかのように舞う。そこには写真作家同様それまでの彼女の生き様が現れてくる。全幕を演じ終え改めて舞台に現れたプリマ・中西貴子、その姿に同じく"美"を追求する者として共感を覚えた。何かが吹っ切れたような、それでいて充実感に満ち溢れた表情で登場したのだ。本来ならば、直前に演じた亡霊の余韻を残しつつ新たな見せ場を作ることが演出の王道であるのかも知れないが、これぞ「暗く長い挫折の日々を経験した」中西貴子なのであろうと感じた。

 

 僕は、絵画や写真などの芸術作品を見る際、その作品から作家の"葛藤"が伺えた時に、その行為に対して敬意と讃称の意をおくる。自分にとって「芸術作品」とは、葛藤の賜物であるとも考えている。しかし、広告など人々の目を引く為にインパクトを与えた写真やイラストとは異なり、こうした作品に秘められたその痕跡を探ることは容易ではない。まるで精神修行のように辛抱強くその作品と対峙することからはじまるのだ。

 

 このような物質化、物質変換を行う絵画や写真行為とは異なるが、バレエの世界に於いて、美しい手脚を持ち、全てに恵まれているとされる中西貴子だからこそ直面した苦悩もあっただろう。奔放な母親と比較され、心痛めることもあったに違いない。そんな彼女の抑えることの出来なかったあの表情にこそ、それまでのバレエ人生の葛藤が映し出されていたように思う。長野オリンピックの際、不振に苦しみ、本番に弱いと言われたスキージャンプの原田雅彦、やがて優勝を飾った時の彼の表情にそれまでの葛藤を見たのは僕だけではないだろう。

 

 パフォーマンスショーだが、薄暗い舞台の上に数種類の異なるカラーライトによって、何かにもがき苦しむような、うごめく人間たちの姿が映し出される。それぞれの役者はSanaeさんの動きに反応するかのように舞っていくのだが、たびたび現代社会への問題提起とも伺えるシーンが訪れる。本来、彼らの考えや心理を探るものでないことは承知だが、その想いと共に何処へ向かおうとしているのか、それぞれのパフォーマーのことが気になった。しかしそれは、「お前は何処から来て、どこへ向かうのか」そう問われているようでもあった。現在、Sanaeさんは、様々な手段を用いて自己表現を行っている。これは15年に及ぶ彼女のニューヨークでの葛藤が生み出したひとつの答えなのだろう。

 

 ニューヨークには、底なしの野心を抱いた無数のアーティスト、アーティスト志望者がいる。僕は「野心のすすめ」は出来ないが、本来、葛藤こそが真の芸術作品を生み出すと考えている。バレリーナ・中西貴子、アーティスト・Sanaeの”葛藤”に敬意を表して。

2015.2.23

 渡辺澄晴氏の写真展「ワシントン広場の顔」が、新宿のギャラリーで開催された。渡辺氏は会社の命によって1962-64年の2年間ニューヨークに住み、その後1990年、2013年の2度に渡り再訪し、このシリーズを撮り続けてきた。一昨年(2013年)の撮影には僕も同行したこともあり、この写真展にはどうしても駆け付けたかった。会場を覗き込むと、かつて理事会でご一緒した頃と同じくスーツ姿の凛々しい「ナベさん」と目が合った。そして、「いつ帰って来たの?」と、笑顔で迎え入れてくれた。2年振りのうれしい再会だった。ナベさんは変わらずお元気で、会場にいた皆さんに僕を紹介してくれると共に、ニューヨークでの撮影秘話を熱く語りはじめた。

 

 「あの頃のニューヨークでは、キャデラック(注1)を買うかニコンF(注2)を買うか、そうも言われていた。僕はそんな時代に2台の“キャデラック”を肩に掛け、毎週末ワシントン広場に出かけて行ったんだ。」そう語る渡辺氏は、他の駐在員たちが休日のゴルフを楽しむ中、ひたむきにニューヨーカーにカメラを向け続けたのだ。結婚後間もなくニューヨークへの赴任を言い渡された渡辺氏、その寂しさを作品制作のエネルギーに変え、このシリーズは生み出された。

 マンハッタンのアパートに暗室を作り、夜になると撮影したTRY-X(コダック製フィルム)を現像する。すると、いつものように向かいのアパートの窓越しに妖艶な人影が浮かび上がる。お客を連れ帰って来たストリートガールの姿だ。1960年代のニューヨークと言えば、暴動が多発するようになり、最悪の治安と社会情勢へと突き進んで行った頃だ。

 

 これまでに3冊の写真集が出版されたのだが、1965年版の「ワシントン広場の顔」は、渡辺氏の手元にさえもストックがなく、海外のネット販売では数万円の値が付くほど大変貴重な一冊となっている。この写真集は、あの、“ニューヨークタイムズ”の書評にも取り上げられ、現在でも「写真家のナベさん」として同世代のニューヨーカーの記憶に残っている。2台の“ニコンF”と共に、若者の中に突進して写し撮ったあの作品群を見れば、当時、“ライフ” (グラフ雑誌・注3)が渡辺氏をスカウトしたという話にも納得がいく。しかし、「結婚したばかり...」という思いもあり、渡辺氏はその話を断ってしまったのだ。そこには計り知れない苦悩があったであろう。

 

 今回の展覧会で、初めてナベさんから「金丸重嶺(注4)」の名を聞いた。金丸氏は僕の高校の大先輩でもあることから、早くからその存在を知ってはいたが、渡辺氏の代表作のひとつとも言える「黒人男性と指を絡ませた美しき白人女性 / 1962-64年撮影」は、その金丸氏の目に止まったことで、“アサヒカメラ”への掲載が決まったというのだ。時を同じくして、白人と有色人種とを差別する人種隔離政策に対する、反アパルトヘイト運動に身を投じていたネルソン・R・マンデラ氏(注5)が国家反逆罪で終身刑の判決を受けて投獄された。

 

 この展覧会には、写真作品以外にもこれまでの渡辺氏の多くの著書が並び、僕がお邪魔していた間だけでも、たくさんの渡辺ファンや、氏のワークショップ受講生が引っ切り無しに訪れていた。渡辺氏の撮影スタイルは、時代と共に変化した。近年の撮影では、かつての記憶を辿るように、現在のニューヨークとその記憶を結び合わせるように穏やかな目線で街や人を見つめている。一方で、いまなお湧き上がる気鋭な制作意欲で満ち溢れる「写真家・渡辺澄晴」、氏の新たな都市での作品も見てみたくなった。

 

 「ナベさん、今度は一緒にヨーロッパへ撮影に行きましょう!」

 

 

(注1) キャデラック : イギリスのロールス・ロイス,ドイツのメルセデス・ベンツに並び、世界を代表するアメリカの高級車ブランド。

(注2) ニコンF : 1959年発売。ニコン初の一眼レフファインダー式カメラ。交換レンズ群やアクセサリーなどの周辺機器も用意され、それらを活用することよって多くの撮影シーンで活躍した。1966年、グッドデザイン賞を受賞。

(注3) ライフ : アメリカで発行されている写真を中心としたグラフ雑誌。撮影、記事、レイアウトなど編集を一貫させ、アメリカの思想・政治・外交を世界に発信している。

(注4) 金丸重嶺 : 1900-1977年。写真家、写真評論家、写真教育者。商業写真の草分け。現日本大学芸術学部の教授、理事、学長、そして日本写真協会副会長、日本広告写真家協会会長などを歴任。著書「写真芸術を語る」など。

(注5) ネルソン・R・マンデラ : 1918-2013年。南アフリカ共和国の政治家、弁護士。1964年、国家反逆罪で終身刑の判決を受けるが、27年間に及ぶ獄中生活の後、1990年に釈放される。第8代大統領、南アフリカ共産党中央委員などを歴任。ユネスコ平和賞、ノーベル平和賞などを受賞。

  

2015.6.20

 工藤一義氏から、写真集「世界文化遺産 宮島厳島神社 視点」が届いた。

 1996年、原爆ドームと共にユネスコ世界文化遺産に登録された、広島湾に浮かぶ厳島(宮島)に鎮座する「厳島神社」。広島広告写真家協会の会長を務める工藤氏は、その卓越した撮影テクニックと共に、この世界文化遺産と半世紀近く向き合って来た。写真集には、時に工藤氏がレンズそのものとなってフィルムに焼き付けた、むき出しの厳島神社の姿が収められている。そのことが、確かな記録と記憶として、残すべき一冊に仕上がったのであろう。定点撮影による四季の移ろいや、朝靄、黄昏、そして花火に包まれる厳島神社、その優美さに、この写真集を手にした人は魅了されるに違いない。

 

 神社と聞くと、想い出す場所がある。埼玉県のある神社に「ムササビ」の写真を撮りに通っていたことがあるのだ。当時中学一年生だった僕は、佐藤くんという二つ年上の先輩に連れられて電車とバスを乗り継ぎ、まだ陽のあるうちにその場所へ向かう。あとは、音を立てないように神社の木々の下でジッと時を待つ。カサカサ、という音が聞こえると、佐藤くんとお揃いの懐中電灯で、音源を探す。ムササビが現れる頃には最終バスもなくなり、撮影が終わっても朝まで神社の社屋の前で再びジッとしているしかない。

 

 その日は、深夜から大雨が降り続いた。寒くて寒くて震えが止まらず、僕たちは駅までの道をバス停を辿りながら歩くことにした。駅に着いた時には、すでに始発の時間になっていた。それからどの位してからのことだったのか、あまりのショックの為に記憶が飛んでしまったが、もう二度と佐藤くんと一緒に撮影に行くことが出来なくなってしまった。彼は、あまり体が強い方ではなかったのだ。その後、何度となくその神社にムササビを撮影しに行き、同じ場所で朝まで独りで過ごした。それは、高校生になってからも続いた。いま思えば、佐藤くんに会いに行っていたのだと思う。いまでも、「た、な、い、く〜ん」と、玄関先から声をかけてくる彼の姿が瞼に浮かぶ。佐藤くんから譲り受けた懐中電灯は、いまも遺品として僕の手元にある。 

 

 写真集「世界文化遺産 宮島厳島神社 視点」に話を戻すが、たくさんの写真の中に入り込んでいる、厳島神社を執拗に追い続ける工藤氏が、ふと空を見上げたであろうと思われるシーンが好きだ。一見、何処なのか、いつなのか判然としないものもある。しかし、その時、写真家・工藤一義は、確かに「そこ」にいたのだ。そして、鎧から解き放たれた工藤氏の作家魂と、その場所とが交錯した瞬間なのだ。

 

 工藤氏にも、半世紀に及ぶ厳島神社とのたくさんの思い出があるに違いない。今度、じっくりと話を聞いてみたい。

 

2015.7.10

※写真は、工藤一義会員の写真集「世界文化遺産 宮島厳島神社 視点」より。

 友人に誘われて、久し振りに試写会を訪れた。

『フリーダ・カーロの遺品 - 石内都、織るように』

 この映画は、小谷忠典監督が、メキシコの「青い家」(フリーダ・カーロ博物館)に於いて、石内都氏のフリーダ遺品撮影の過程を追ったドキュメンタリーである。

 

 僕とフリーダとの出会いは、ジュリー・ティモア監督によって製作された『フリーダ』(2002年)だった。フリーダ・カーロ、1907-1954年。父親は職業カメラマンだった。6歳で急性灰白髄炎にかかり、18歳の時には、交通事故によって重い後遺症を負った。その長い入院生活の中で本格的に絵を描きはじめたという。やがて、21歳年上の画家、ディエゴ・リベラと恋に落ちる。リベラの女性関係は激しく、それに抵抗するかのようにフリーダも他の男性との恋を重ねていく。

 

 二人の愛の形はとても衝撃的で、忘れられないアーティストとなった。彼らは、仕事の為に都市を転々とするが、1930年代初頭にはニューヨークに滞在し、フリーダの初の個展もニューヨークだった。 

 

 さて、小谷監督作品『フリーダ・カーロの遺品〜』だが、遺品を撮影するとはどんなことなのだろうか...

 

 かつて、生前遺影(生前のポートレイト)撮影に立ち会った際、写真が人やモノなど被写体の死を内包することを意識するようになり、そんな想いで街や人々にカメラを向けることも増えた。また、近年、スマートフォンの写真アルバムにその1枚を収めることで、これまで処分出来なかった身の回りのモノや、大切な人が残した品々を手放す人たちがいる。僕自身も、ニューヨークで引っ越しを繰り返す中、同じような行為をしたことがある。しかし、撮影したからといって目の前に存在するモノを葬ることなど出来る訳もなく、結果、そのほとんどを手放すことはなかった。

 そんなことを思い出しながら足を運んだ試写会であったが、フリーダの遺品撮影が進んでいくと、彼女が愛用していたテワナ(ドレス)が、メキシコ、オアハカ州の人々が現在も着用している民族衣装であることがわかってくる。それは、母から子へ、そして孫へと、魂と共に受け継がれるドレスであり、そのことの方が、大きく僕の心に触れて来たのだ。小谷監督のカメラも、遺品撮影やフリーダという記号から、民族のアイデンティティーとも言うべき、そのドレスへと向かっていくようにも感じられた。

 

  本来、撮影機材の話をするのは好きではないが、やはり写真関係者にとっては、この遺品撮影でどんな機材やフィルムが使われたのか、気になるところだろう。

 スクリーンからは、ニコンF3ボディ(注1)に、55ミリのマクロレンズが装着されていることがわかる。そして、コダック製のネガカラーフィルムを使用しているのではないかと思われる。写真は、デジタルで撮影するか、フィルムで撮影するかでは依然として仕上がりに大きな異なりがある。もっと言うならば、ポジフィルム、ネガフィルムのどちらを選択するかによって、ライティングなどでは調整することが出来ない、微妙なニュアンスが現れてくる。映し出されたニコンF3の露出設定はオート。もし、ネガカラーフィルムを使用しているとすれば、ラティチュード(注2)によってこれも可能であろう。そして、このフィルムの特性としての柔らかいトーンと穏やかな発色が期待出来る。また、背景が白ではあるが、特記すべき道具は使用されていない為、写真は更に柔らかさを益すことになる。

 

 映画の中では、フリーダの作品も紹介されている。彼女が残した作品の大半は自画像であり、葛藤と共に描き出したであろうと思われる自身の姿が、死後50年の時を経て公開された遺品と共に、多くのことを語りかけてくるようだ。リベラはフリーダのテワナ姿を好んでいたという。フリーダ・カーロとディエゴ・リベラ、衝撃を受けた二人の愛の形だが、10年の海外生活を経て、いま僕はそれに共感しはじめている。

 

(注1)ニコンF3 : 1980年、発売。電子制御式シャッター、絞り優先AEを搭載。F4(1988年)、F5(1996年)が発売されて以降もF3は姿を消すことなく、このシリーズでは最長の20年に渡って製造された。

(注2)ラティチュード : フィルムなどが再現できる露光の範囲。ネガフィルムはラティチュードが広く、ポジ(リバーサル)フィルムやデジタルカメラのデータは狭い。一般に、撮影に於いてはラティチュードが広いネガフィルムの方が扱い易いとされる。

 

2015.7.30

 「シューシュー」、「カンカンカン」、 

ニューヨークではこの時期になると、こんな音が鳴り響く。

 東京のような比較的温暖な環境で育った僕には、ニューヨークの冬は本当に身に堪える。よく晴れた日に、青空の中を颯爽と通り抜けて行くあの飛行物体を見かけると、「あぁ、あれに乗ってどこか暖かい所へ行きたい」と、いつも思う。

 

 日本に住んでいた頃には、久しく手袋なんてものを使った記憶はなかったが、日中でも氷点下が続き、大雪も降るニューヨークの冬にはマフラーと共に欠かせない。しかし、そんな都市だからこそ、とても素晴らしいシステムが普及している。真夜中の「カンカンカン」という激しい音に慣れるまでは、何度も、「ビクッ」とさせられたが、この設備のお陰で、部屋中どこへ行っても暖かい。キッチンへ行こうが、バスルームへ行こうが、空き部屋までも常に同じ室温だ。旭川出身の友人が、「実家の床暖房もこんな感じ」とは言っていたが、かつてどこかで観た映画かTVドラマの主役たちのように、真冬に家の中を短パンとTシャツでウロウロ出来るのはとても快適で、何とも言えない幸せが感じられる瞬間だ。「シューシュー」というスチームの音でさえ、心地よく聞こえてくる。

 

  今年のはじめ、旅行者から置きみやげにもらった「ユニクロ」のタイツを試着してみたのだが、ぴちぴちで何とも気持ち悪く、しばらくは使用しなかった。しかし、マイナス15度を記録するようなニューヨークの冬、一度履いて外へ出たらこれがやめられない。なぜ、この何年間も「寒い、寒い」と言いながら真夏と同じジーパンを履いて撮影に出かけていたのだろう、そう後悔させられた。そんな厚着をして外出せねばならないニューヨークだが、家に帰れば部屋はヌクヌク、すぐに裸同然になれる。だからこそ、こんな極寒の街でもやっていけるのだ。

 ニューヨーク市には、冬の間、(アパートのオーナーは)外気温が一定の温度以下になった場合、室温が20度になるように暖房を稼働させなければならない、という条例がある。また、一年を通してお湯が出るようにもなっている。多くの場合、ビルの地下室にボイラーが置かれ、各部屋に鉄管で繋がれたラジエーター(放熱器)へスチームを送る暖房システム、セントラルヒーティングを使用している。ラジエーターは、リビングにもキッチンにも、バスルームにまでも設置されている。至ってシンプルな構造だが、これが壊れたりすると日本のような素早い対応を期待するのは難しく、修理の数日間はヒーターがつかないなど、悲惨なことになるのだ。中には、経費を節約するためにボイラーの温度設定を低めにするなど、悪質なオーナーも存在する。その点、僕のアパートは設定温度が高いのか、誰が来ても、「ここは暖かいね〜」と言うほど、快適なのだ。

 

 「ニッポンの冬(家の中)は、つらいよ」。再三に渡り、ニューヨーク経験のある友人からそうは聞かされていたが、久し振りのニッポンの冬は本当にキツイ。ホットカーペットの上や、ファンヒーターの前から動くことが出来なくなってしまう。しかし、思い起こせばロンドンで借りていた部屋は寒かった。どこかのアパートのオーナーのように、電気代が高いからとセントラルヒーターの設定温度は低く、稼働時間も極めて短い。朝は、9時頃からしか作動せず、夜は8時には止められてしまう。お屋敷とはいえ、個人宅の屋根裏を借りていた為、例え、市の条例があったとしてもここには及ばない。同じような境遇の友人は、あまりの寒さに部屋の中でも一日中ダウンジャケットを着ているという状態だった。そう思ったところで、あのセントラルヒーターのヌクヌクを知ってしまった身体は、もうどうにも言うことを聞いてくれない。

 

 日本には、「冬の寒さは、ある程度は我慢せよ」みたいな雰囲気があったように思うし、人感センサー付きの優秀なエアコンも普及し始め、家全体を温めたいだなんて、贅沢以外の何モノでもないと言われてしまいそうだ。

 

 ところで、置きみやげにいただいた「ぴちぴちのタイツ」だが、後に女性モノのLサイズだということがわかった(笑)。

 

2015.11.2

ニューヨーク物語27 棚井文雄

ニューヨークで覚えた「冬の贅沢」

 

ニューヨーク物語26 棚井文雄

フリーダ・カーロの遺品

 

ニューヨーク物語25 棚井文雄

工藤一義と厳島神社

 

ニューヨーク物語 24 棚井文雄

ニューヨークとナベさん

 

ニューヨーク物語23 棚井文雄

葛藤

 

ニューヨーク物語 22 棚井文雄

写真が繋ぐステキな出逢い 2

ニューヨーク物語

プロジェクトオーナーの写真家・棚井文雄氏が、2011年から  (社)日本写真作家協会広報誌に掲載してきました「ニューヨーク物語」を当サイトで引き続き連載いたします。

 

ニューヨーク物語 21 棚井文雄

クリスマスカードと年賀状

新年おめでとうございます

日本のお正月はいかがですか?

 

 12月上旬にニューヨークから日本へ発送したクリスマスカードが、未だに届いていない。全てではないが、「僕のクリスマスカードは届きましたか?」と、確認する訳にもいかず何とも悩ましい限りだ。かつて、中国のある都市から発送した150枚近い年賀状、これは一通も届くことはなかったようだ。きっと、日本へも送られなかったのだろう。また別の都市では、郵便局に行く時間がなく、ホテルマンに書き上げた葉書と日本までの切手代を渡したことがある。あの年賀状たちは無事に届いていたのだろうか…。

 

 ご存知のように、アメリカでは新年の挨拶を「メリークリスマス&ハッピーニューイヤー」というように、クリスマスと一緒に行う。カードは、12月に入った頃には発送し始め、いただいたものは、映画のシーンなどのように、クリスマスや新年まで部屋に飾ることが多い。また、お金を同封することもある。僕自身、ある代表の方から手渡されたクリスマスプレゼントに添えられていたカードに、ドル紙幣(撮影のお礼だと思われる)が入っていた。

 

 日本でのクリスマスプレゼントは、大人から子供へ、もしくは恋人同士のイメージがあるが、ニューヨークでは、友人や親族間などの大人同士でも行われている。しかも、そこには日本では考えらない世界が存在する。もし、もらったプレゼントが気に入らなかった場合には、交換に行くのだ。そんなことが出来るのもプレゼントに販売店のギフトレシート(金額は記載されていない)を同封しておくからで、事実、僕の知人はコートの色が好みではないと、他の色に交換していた。さすがは返品大国アメリカ。ハロウィンやクリスマスパーティで着た衣装をそのまま返品する人もいるくらいなので、そんなことには慣れているのだろう。

 

 日本にいる頃には、お正月に配達される年賀状がとても待ちどおしかった。家族写真が送られてくることには賛否両論あるようだが、僕は友人の変化やご家族の様子を楽しんでいた。しかし、企業からの葉書のように形式的な文章だけが印刷されていると、どこか寂しい気持ちになったものだ。そう思うと、自分の年賀状には生きた言葉を書きたくて、いつも膨大な時間を費やしていた。そんな年賀状もメールの時代になりつつあるが、いまでも僕の日本の住所に送っていただいたり、声の聴こえてくるような挨拶メールを下さる方々がいる。ニューヨークに住んでいると、日本でこうした人たちと関わって生きていきたい、益々そんな気持ちになる。

 

 一瞬にして世界と繋がるかのように感じるインターネット社会、だからこそ、紙などの媒体に記された文字や写真、そういうモノをとても愛おしく感じる。

 

2015.1.3

​- 2015 -

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