ご存知のように -16℃ という極寒のニューヨークでしたが、今週は暖かくもう春の訪れかとウキウキしていました。でも、またすぐに寒くなってしまうようです。

 先日アメリカ人男性と結婚した友人から、「まったく英語が上達しない」という相談を受けました。また、やはり英語が共通語の彼氏と3年近く一緒に住んでいるのに、パーティなどで自己紹介をすることさえも難しい、という友人もいます。他にも似たようカップルを知っていますが、彼らの話を聞いてみると毎日同じ会話を繰り返しているだけのようで、あまり深い話はしないというのです。僕は英語の上達ということよりも、二人の関係が気になってしまいました。日本人の察するとか思いやるという心をもってすれば、ある程度は人の気持ちや考えを想像することも可能でしょうが、言葉なくして真に理解し合えるのかどうか少し疑問も感じます。まぁ、二人が幸せならそれでいい訳で、余計なお世話ですね。

 

 現在制作中の僕の作品集には一切の言葉を入れず、代わりに「サイン」としてちょっとした記号を使用しています。言葉がなかった時代の意思伝達を考えれば、言葉を超える、個々のカップル特有の、雰囲気としての「サイン」が存在しているのだろうとは思います。友人でアメリカ人のエミーは、「ネイティブ(母語話者)同士ではないカップルは、本当にお互いを理解することは出来ない、わかり合えない」と断言します。彼女は、言葉とその表現方法をとても大切にしている女性です。

 

 一方で、「わからないからいい」という人もいます。わからなければ喧嘩にもならないというのです。賛否両論あるでしょうが、僕は、わかりたい(笑。「サイン」を探しまくって、色んな意味を妄想してしまいそうです。しかしながら、男女を問わず母語話者同士でも「なぜ?」と思うことがここニューヨークに来て増えました...(苦笑。

 

2014.1.18

 1960〜1970年代、今で言うところの“ちょいワル”写真家たちがジャズクラブにたむろっていた。色々な意味で写真家にとって最高の時代であったに違いない。やがてそんな写真家を代表する一人に師事した僕は、ジャズフェスティバルなど多くのイベントに同行し、世界の名立たるプレーヤーたちを知ることになる。そして、徐々にジャズへの興味を深めていった。フリーとして独立し中国を撮影していた頃には、和平飯店/ピースホテル(上海)のジャズバンドをひいきにしていた。その後、友人のジャズプレーヤーからサックスを習い、ニューヨークではジャズシンガーと出逢うなど、ジャズは更に身近なものとなった。

 

 先日、ある女性からジャズを聴きに行かないかとの誘いを受けた。美女のいざないを断っていてはいつまでも“ちょいワル”にはなれないと、喜んでブルーノートに足を運んだ(笑)。「ブルーノート」といえば、ワシントンスクエア近くに佇む、言わずと知れた名門ジャズクラブである。僕は、約束の時間よりも少し早くアパートを出た。久し振りに渡辺澄晴氏(ニューヨーク物語8)と一緒したあの場所を歩いてみたくなったからだ。気候が良くなってきたこともあって、ワシントンスクエアは多くのパフォーマーとそれを囲む人々で賑わっていた。すぐに、ナベさんがカメラを構えている姿が目に浮かんできた。そして、「きっとこのカップルにカメラを向けるだろうなぁ…」と想像しながら僕もシャッターを切った。

 

 ブルーノートに入ると、開演30分前にも関わらず既に超満員。僕たちはバーの立ち席となった。この日はゲイリー・バートン(ヴィブラフォン奏者)と小曽根真(ジャズピアニスト)のデュオ。僕は、ブルックリンビールを飲みながら「富樫雅彦」のことを考えていた。“ジャズ”といえば真っ先に氏が思い浮かぶ。助手時代、富樫さんの取材に同行したことがあり、それは 「東京FMホール」での出来事だった。挨拶を交わした直後、富樫さんは突然ドラムを叩きはじめたのだ。それもたった2人の為に。さほど詳しくなかったとはいえ名立たるプレーヤーたちの音を聴いていた僕は、富樫雅彦のドラムに大きな衝撃を受けた。そんな思い出話を美女に囁いていると、デュオ演奏が始まった。心地良い音色がクラブ内を染めて行く。しばらくすると、隣の女性がしゃがみ込んだ。心配になって目をやると、床の上にあぐらをかいているではないか。しかも、軽く身体を揺すりリズムをとっている。これぞニューヨーカーだ(笑)。すると、今度は美女がうずくまった。こちらは少し様子が異なる。すぐに外に連れ出そうとも思ったが、幸い大事には至らなかった。きっと、僕が思う日本人の美徳を持ち続けている女性であり、さまざまな気疲れが溜まっていたのかも知れない。真の美女は“かよわい”というイメージを持っているが、「ホンモノだ」と久し振りに思った(笑)。

 

 助手時代に多くの文化人や著名人と接し、時には個人的に会話をするチャンスもあった。中でも富樫雅彦とのような出逢いが僕を育ててくれたのだと、後に感謝の気持ちを抱くようになっていた。そして、いつか写真家として「富樫雅彦に逢いに行こう 」そう思っていたのだが、行動を起こそうとした時にはすでにこの世では逢えない人となり、僕の夢は叶わぬものとなった。「もう少し…」そう思っているうちにかなりの時が過ぎ去ってしまうものだ。きっと、美女にも同じことが言える。この原稿を書き終えたら、すぐにでも“ちょいワル”メールを送ろう。本家“ちょいワルおやじ”パンツェッタ・ジローラモ直伝の秘法で...(笑)。

 

2014.4.16

 ニュースなどでご存知かも知れませんが、今夏のNYは冷夏とも言われ、せっかく取り付けたクーラー(ニューヨーク物語7)の出番も少ないままです。

 

 ニューヨークに来て本格的にデジタルカメラを使いはじめたわけですが、同時に晴れた日に撮影に出かけることが多くなりました。その為、この季節に数時間街を散策していると日焼けを避けることは出来ず、ちょっと油断するとすぐに肌がボロボロになります。ニューヨークは、日本よりも紫外線量が多いのです。今年は、積極的に日焼け止めスプレーを使ってはいますが、日本製のようなドライ感はなく、吹き付けると顔はテカテカになり、やがてカメラのファインダーやモニターがヌルヌルしてきます。ついつい手ぬぐいで顔の日焼け止めを拭ってしまいがちです。まぁ、そんな日のお風呂上がりのブルックリンラガー(1)は最高ではあるのですが...(笑)。

  

 今日は、ニューヨーカーたちと日本食レストンで食事をしてきました。初めて食した、というニューヨーカーにも「イクラおろし」は好評でしたが、「たこわさ」は賛否両論。僕はといえば、以前自分で醤油漬けにしたシャケ1匹分のイクラを思い出し、「山盛りのイクラ丼を思いっきり食べたい! 」と心の中で叫んでいました。また、何でも食するのは中国か、はたまたフランスかという話題で盛り上がりました。僕は断然中国だと思っていたのですが、ニューヨーカーからするとフランス人も考えられないものを食していると感じるようです。確かに、犬にしても中国だけでなく韓国でも食べられてきた訳で、エスカルゴ、カエル、ウサギ、馬などのフランス食材もジビエのイメージと共にバラエティに飛んでいる印象を与えるのかも知れません。しかし、かつて広州(中国)の馴染みのレストランで、ネズミや猫を勧められた経験がある僕としてはやはり中国に一票を投じます。

 

 実は、この食事会に参加させてもらったのには理由があり、かねてから岩崎勇氏に氏の写真集「蔵・桜」(ニューヨーク物語 10)をあるご夫婦に渡して欲しいと託されていました。岩崎氏からこの話があった際、「自分の写真集が海を越えて行くなんて思いもしなかった」という内容の手紙をいただき、何か良い機会がないかと模索していたのです。今回はアート関係者との食事会ということで、急遽そこに参加させてもらいました。この写真集を知人夫婦のみならず、業界関係者にも紹介出来たことは大変素晴らしいチャンスに恵まれたと思います。

 

 また、渡辺澄晴氏にも、氏の写真集「ワシントン広場の顔」(ニューヨーク物語11)をかつて書評が掲載されたことのあるニューヨークタイムズ誌に持ち込んで欲しいと頼まれており、しばらく時間はかかってしまいましたが、先頃やっとのことで担当者を探し出して預けてきました。

 

 写真作家として純粋に制作に取り組む両氏の夢、その思いを無事に繋ぐことが出来て、今夜のブルームーン(2)はいつもより美味しく感じます。

 

 (1)ブルックリンラガー 

 苦みとフルーティな香りを兼ね備えたニューヨークの地ビール

 

(2)ブルームーン    

 ベルギー産小麦&バレンシアオレンジピールを使用したビール

   

2014.8.21

 NYは久し振りに青空が広がり、いつものようにあてのない散歩に出かけることにした。アパートを出てメトロに揺られること1時間半、車窓からの風景を眺めているといつの間にか終着駅。駅周辺を散策していると墓地を発見、さっそく中に入ってみることにした。これまでいくつもの墓地を訪れたが、ここはちょっと趣が異なる。まるでギリシャ遺跡や凱旋門、ピラミッドを彷彿させるような墓石が目に飛び込んできたのだ。ベンチ型やハートマークのものまで存在する。

 

 いつものストリートスナップのように、撮影は手短に行いカメラはすぐにバックにしまっていたつもりだったが、しばらくすると一台の車が近づいて来た。どうやらこの墓地の警備員のようだ。やはりライカのようなレンジファインダーカメラでの撮影とは異なり、デジタル一眼レフはどうしても目立ってしまう。「こんなことには頻繁に遭遇しているので慣れっコ」と思っていたのだが、今回は車に乗るように言われてしまい車内での尋問。そのまま事務所まで連行された。身分証明書を提示するようにも言われたが、持っていたのは取材用のプレスカード。時にこれはややこしい事態を招くため提示せず。一通りの尋問後、誓約書にサインをさせられた。しかし、その後このガードマンの運転で著名ジャズミュージシャンのお墓を案内してもらえることになったのだ。彼は元警官であり、「あんたは正直そうなので・・・」とのこと(笑)。お礼に、「ありがとう」という日本語を教授させていただいた。NYって、たまにこんなこともあるんです。

 

 ガードマンといえば、僕がまだ写真家の助手時代、「歌って踊れる写真家にはなれないが、何かしてみよう」と思い立ち、何故だったかテニススクールに通ったことがある。スコート姿の美女と楽しくレッスンをしていたことよりも、親しくなったそのビル(テニスコートが屋上にあった)のガードマンを、手に入れたばかりの二眼レフカメラで撮影し、8×10 / バイテン(注1)に引伸したモノクロプリントをプレゼントしたことを鮮明に記憶している。フリーの写真家として独立した時の為に運転には慣れておくべきだと、助手時代から車(親戚の車商から手に入れた19万円のトヨタ・セリカXX)に乗っていた僕は、このガードマンのお陰でいつも関係者駐車場に愛車を停めさせてもらっていたのだった。

 

 ある日、このガードマンから教えられたことがある。「もしどこかに人が倒れていたら、ちょっとでも触ってはダメだよ。必ず人を呼びに行くこと。その人が亡くなったりしたら、触ったことを問題にされてしまうことがあるからね」、「君は、真っ先に助けようとしそうだから心配だ」と。確かに、ボーイスカウト時代に一般的な応急処置や人工呼吸も学んでおり、率先して行動に移すように指導されてきた。森永さんという方だったが、写真家として独立した頃にはビルが立て替えられ、その報告も出来ないままになってしまった。これも僕の十字架のひとつだ(ニューヨーク物語 5)。

 

 最近、尊敬するある写真関係者のお嬢さんと知り合いになった。彼女に墓地での出来事を話すと、「これからも記憶に残る人に、たくさん会えることを願ってますーー ! 」というメールが届いた。これは僕へのメッセージであると共に、彼女自身の願いでもあるのだろう。

 

 色々な人がいて色々なことが起こる世の中で、生涯の記憶に残るような人との出逢いはとても貴重でステキなことだ。

 

(注1) バイテン:8×10インチ、フィルム印画紙サイズの定番のひとつ

 

2014.10.8

 先月の中頃、日本に住む友人から「柿の収穫中です。」というメールが届き、親戚の家で柿やビワの実を捥いで食べることを楽しみにしていた子供時代を想い出した。実家の一隣にも大きな柿の木があり、年に一度お裾分けをいただいていた。小学2-3年生の頃だっただろうか、自分でも実を生らせてみたくなり、柿とビワの種をそれぞれ大きな鉢に植えた。柿は上手く育てることが出来なかったが、ビワの木は3-4年をかけて60-70cmまでに成長させた記憶がある。「桃栗3年、柿8年」という位だから、ビワも8年もすれば実を生らせるに違いないと楽しみにしていたが、その願いは叶うことなく終わった。

 

 ある日、近所の子供たちがボール遊びの最中にビワの茎を折ってしまったのだ。僕はその木を抱きながら、薄暗くなった部屋で電気も灯さずにいつまでも泣いていた。そして、あれからビワを食べなくなってしまった。先頃、ニューヨークで食する機会があったものの、やはりあの想い出のように渋味が強かった。

   

 この季節になると、こちらのストアーにも柿が並ぶ。富有柿(注1)に由来するのか「fuyu(ふゆ)」という名で知られている。この文字を見る度に、「今年もあの寒さが近づいて来たかぁ」と、あるシリーズ作品撮影の為に真冬の街角に何時間も佇んでいた日々を想い出す。

   フィルム時代、カメラには多くの金属が使われており冬場の撮影では冷たくつらかった記憶がある。しかし、あの握った瞬間の冷やっとする金属特有の感触と、視覚的な質感があってこそ道具として愛着を持てたように感じる。それは、幼年期のブリキのオモチャの感触や体育館のトタン屋根が作り出す雨音のような、ある瞬間に心地よく呼び起こされる感覚記憶に似ている。現在、実家のドライボックスの中に眠っている僕の愛機たち、ニコンF2、ライカM6、オリンパスOM-4に久し振りに触れてみたくなった。

   (注1) 富有柿/ふゆうがき : 岐阜県瑞穂市が発祥とされている甘柿

 

2014.11.6

 昨秋、ニューヨークでトークショーを行った際に、友人を通じてアーティストのSanaeさんに出逢った。その場で誘われるまま、彼女の作品制作に参画することになった。約1年の時を経てプロジェクトを開始したが、その中で、お互いにジェラルド・ジャクソンというアーティストと関わりがあることを知った。何と、渡辺さんの写真集、『ワシントン広場の顔』1965 年版に、Sanaeさんの恩人であるジェラルドが写っているというのだ。15年前、彼女が初めてNYにやって来た際にジェラルドと出逢い、真っ先に聞かれたことは、写真家の渡辺澄晴を知っているか?ということだった。「知らない」という答えに対し、彼はあきれた顔でこう言った。「有名な写真家だ、僕らがワシントンスクエアでアヴァンギャルドなことをしていたので、Sumiharu Watanabeが興味を持って写してくれたんだ」。

 

 昨春、渡辺さんがニューヨークに来た際には、何度となくワシントン広場を訪れた。その度に、僕に熱く想い出を語りながらかつての友人たちを探し続けていた。その一人がジェラルドだったのだ。もし、あの時に僕がジェラルドに出逢っていれば、二人に素晴らしい再会のサプライズをプレゼントすることが出来たのに...そう思うと悔しさでいっぱいになった。しかし、Sanaeさんからの提案もあって、僕が渡辺さんに代わって現在のジェラルドを撮影することにした。

 

 メトロを乗り継ぐこと約1時間半、ジェラルドは閑静な住宅街に居を構えていた。テーブルの上に溢れ返るたくさんのモノたち、それがこの部屋での彼の歴史を物語っていた。ジェラルドはすぐさま、1965年版の『ワシントン広場の顔』を見せてくれた。実は、僕はこれを見るのは初めてだった。すでに渡辺さんの手元にも1冊しかなく、欧米のネットオークションではかなりの高値がついている。ページを捲っていくと、カメラを構えた渡辺さんが当時のニューヨーカーたちに体当たりしていく様子が良く伝わってくる。そして、ジェラルドのことは彼のアトリエや展覧会会場にまで足を運び撮影をしていたのだ。写真集に夢中になっていると、「俺を撮ってくれよ」と言わんばかりにジェラルドは奥の部屋にあるソファに腰を下ろした。僕は2013年版の『ワシントン広場の顔』をプレゼントし、渡辺さんを想い浮かべながら夢中でシャッターを切った。一枚の写真によって、50年に及ぶ渡辺さんのNYへの想いと二人の友情を再び繋ぎたいという気持ちでいっぱいになった。

 

2014.11.11

 ご心配をおかけするといけないので先にお伝えしますが、被害に遭ったのは僕ではありません。前回、「届かないEMS」の話を書きましたが、これは、ニューヨークに長期滞在中の知人宛に送られた荷物で、その行方を一緒に探していた最中、その知人が現金数百ドルとクレジットカード、その上、部屋の鍵まで入っていた財布をスラれてしまったのです。

 

 「一瞬、(袈裟掛けにしていた)バックが重くなるのを感じた」というのだが、その時には気にもかけず後に確認すると財布がなかったのだ。しかもこの犯人、ご丁寧なことに財布を抜いた後、バックのファスナーを締めたようだ。”みごと”としか言いようがない。

 

 数年前、タイムズスクエアでパレードを見ていた友人も何者かにカメラを奪われ、もう一人は似たような状況で、バックの中のカメラが消えた。日本の保険会社への請求に際して、ニューヨーク警察へ書類申請をする友人に同行したのだが、これには結構な手間がかかった。

 

 まずは近くのポリスオフィスで事情を話すと、隣駅のオフィスに行くように言われ、その足で向かってみたが誰もいない。翌日、再びそこで説明をするものの、それなら...とまた別の住所を教えられる。場所を確認後、日を改めてそこを訪れると、テレビや映画で良く見かけるNYPD(New York City Police Departmentの略称)のロゴが入ったパトカーたちが建物の前に無造作に駐められ、○○分署と名称が掲げられた外観が目に入ってきた。建物の中に入ると、やはりテレビの中と同じように警官たちが忙しそうに行き来しているのかと思いきや、カウンターから離れた場所でそれぞれの仲間との話に夢中だ。やっとのことで一人の女性警官を捕まえたが、「バックの中から取られたなんて信じられない」と詳しい話も聞いてくれずにどこかへ行ってしまった。仕方なく別の警官に4回目となる説明を繰り返す。すると今度は何ですぐに来なかったのか(事件から時間が経過している)とお叱りを受けた。「たらい回しにされたんだ」と言いたい気分だったが、ここで警官の機嫌を損ねる訳にもいかない。改めて尋問を受けるかのように質問に答え、書類に状況が記入されていく。しかし、これが処理されて被害届けが郵送されるまでに一ヶ月間程度かかると言うのだ。何て仕事の遅い国なんだ、と飽きれてしまった覚えがある。

 

 ロンドンに住んでいた頃は、携帯電話のスリに遭う友人が多かった。英語でスリのことをピックポケット(pickpocket)というが、停留所でバス待ちをしている列の背後から、またはバスの中で、言葉通りコートなどの “ポケット” から引き抜かれてしまうのだ。フラット(アパート)に空き巣に入られて、パソコンやカメラなどの盗難被害に遭った知人も少なくはない。2005年には同時爆破テロ(地下鉄3ヶ所とバスが爆破される)があり、人々はそれまで以上に警戒していたとは思うが、相変らずスリ被害は頻発していた。

 

 また、ニューヨークでは、ここ数年iPhoneの略奪が続いた。通話中にいきなりひったくられるのだ。ブルックリンに住む知人は、帰宅途中、突然、けん銃(モデルガンかも知れない)を片手に近づいて来た少年にひざまずかされ、銃口を額に押し当てられた。「身体が震えた」と彼女は語っていた。やはり、iPhoneが目的だった。

 

 僕は、これまでにいくつもの都市を旅して来たが、特に目立った被害に遭ったことはない。イタリアの郵便局で切手を買う際に数千円ごまかされた(渡した金額が実際の半分だと言い張る)くらいだろうか。とはいえ、ウィーンで二人組のオトコに長時間付け回されたり、パリで偽警官と思われるやはり二人組に挟まれてしまったり、夜の南スペインの駅ビル内で数人のオトコたちに荷物を狙われたり、また、ニューヨークの駅のトイレでは怪しいオトコたちに囲まれていく様子に気づき、ジーパンのチャックを下ろしたまま逃げ出したこともあった。

 それでいて何事もなかったのは、ボーイスカウト時代に培われた危機管理への心構えによるものなのか、単に運がいいのかはわからないが、一度被害に遭うとそれが連鎖してしまうケースもあるようだ。もう昔のことだが、ニューヨークのアパートの入口で二人組のオトコに捕まり部屋に押し入られ、シェアをしていたルームメイトは殺害され、本人も大けがを負った知人がいる。彼は、それ以前にも他の都市で金品を奪われる被害に遭遇しているのだ。

 

 多くの写真作家、職業カメラマンもそうだろうが、僕もカメラを持つとより興味深い場所、ベストなカメラ位置を求めてついつい一歩も二歩も足を踏み入れてしまう。つい先日も、交差点内での撮影中に車と接触した。回りにいた人から大きな声も上がったが、幸いにも厚いジャケットを着ていた為に、それにスリ傷が付いた程度で済んだ。信号のない交差点内で立ち止まっていた僕が悪いのだが、街中の撮影ではよくやることなので、せめて車幅くらいは把握して運転して欲しいと思ってしまう。ニューヨークのメトロ利用者が、降車する人に構わずどんどん車両内に入って来るように、同じような激しいドライバーも多い。また、ブロンクス(注1)のアパートビルを撮影した直後、どこからか奇声が聞こえ、しばらくして、ものすごい勢いで近づいてきたオトコともみ合いになりかけたのは最近のことだ。

 

 今回、僕がそばにいながらスリに遭わせてしまったこと、そこまで気が配れなかったことを悔やんでも悔やみきれないが、ともあれ、これまで怪我もなく無事でいられたことに感謝したい。これといった信仰は持っていないが、もうすぐクリスマス。「国民の約80%がキリスト教を信じている」、とも言われるアメリカに住んでいるのだから、この日くらいはゴスペルでも聞きながら神に感謝の祈りを捧げてみよう。年が明けたら、今度は仏さまに願い事をしますけど...(笑)。

 

(注1) ブロンクス : ニューヨーク市の最北端に位置し、危険なエリアとして最初に名前をあげられることが多い。

 

2014.12.10

 一昨年の暮れのこと、ポストに不在連絡票が入っていた。「9:30amに配達に来た」とされてはいたが、僕はその時間は部屋にいて、ブザーが鳴ることもなかった。しかし、ニューヨークではこんなことも日常茶飯事。6階建てのアパートといえどもエレベーターがないことも多く、階段で重い荷物を運ぶことが嫌なのか、時間がないのかはわからないが、紙一枚を残してすぐに立ち去ってしまうのだ。再配達希望は全てのエリアで行われる訳ではなく、仮に可能だったとしても時間指定はあってないものと考えた方が良い。僕のアパートからは、郵便局へは歩いても行けるが、民間配達業者の営業所はとても不便な場所にあり、バスを乗り継いだり、タクシーで受け取りに行く羽目になる。

 つい先頃も、日本から発送されたEMS(国際スピード郵便)が届かない。発送者に確認してみると、ストリート名や番地、アパート番号に違いはないが、ZIPコード(郵便番号)を一桁間違えて記入してしまったようなのだ(例えば10011を10012と記入してしまったということ)。ウェブサイトで荷物を追跡してみると、ZIPコードの管轄局までは届いたことになっている。しかし、それぞれの管轄局や本局を訪れてみても、その荷物は1ヶ月以上経過した現在も見つからない。郵便番号が違うだけでこのあり様なのだ。日本なら、少し配達が遅れたとしても確実に届くであろうに...。

 

 さて、一昨年の僕宛の荷物だが、発送者がわからないまま郵便局に受け取りに行くと、その箱はサイズの割に重く感じられた。伝票を見ると、友人の越前和紙ソムリエ、杉原吉直氏からだ。新しい和紙のテスト品だろうか...、そう思いながら開封すると、何と中から大きな鏡餅が出てきたのだ。実は、僕は大のお餅好き、それをニューヨークまで送ってくれたことに甚く感動した。そして、そんな餅好きの舌をこのお餅は唸らせた。いつものように焼き網の上で丁寧に炙り、たっぷりと醤油をつける。すると、いままで味わったことのないフワフワの食感と共に、越前のお米の美味しさが際立ってきたのだ。

 

 二年続けてこのお餅を堪能させてもらったのだが、今年はもうすでに手元にある。今回は民間業者による配達だったが、アパートに帰ると一階のエントランスに放り投げるようにその箱は置かれていた。まぁ、そんなことはさておき、無事に届いた好物のお餅、いまからお正月までなんて待ち遠し過ぎる。すぐにでも焼いて食べてしまいたい気分だ。しかし、ニッポン人の心ともいえるお餅の贈りもの、「お正月飾り」という伝統を経るまではまた今年も我慢の日々...。2015年のお正月は、どんなお雑煮で迎えようかと思いが膨らむ。

 2014年、お餅以外にもたくさんの「恋しい」モノをニューヨークまで送ってくれた方々がいる。改めて、Thank you so much ^^

 

 2014.12.5

 ニューヨークで一番ワクワクする季節がやってきた。毎年、ロックフェラーのクリスマスツリーが点灯される頃には、いたる所からクリスマスソングが聴こえてくる。お店や通りにもたくさんの飾り付けがされ、街中がクリスマス一色になるのだ。

 

 この時期の風物詩と言えば、スケートリンク。映画「オータム・イン・ニューヨーク」や、「セレンディピティ -恋人たちのニューヨーク-」のワンシーンを想い浮かべる人も少なくないだろう。今日も、リンクの上は恋人たちでいっぱいだ。

 Merry Christmas & a Happy New Year!

2014.12.18

ニューヨーク物語 20 棚井文雄

恋の季節

 

ニューヨーク物語 19 棚井文雄

スリに遭った

 

ニューヨーク物語 18 棚井文雄 

無事に届いた、

ニッポンの「恋しい」もの 

 

ニューヨーク物語 17  棚井文雄

ワシントン広場の夜

 

ニューヨーク物語 16 棚井文雄

ニューヨークの美味しい「ふゆ」が、

想い出させてくれるもの

 

ニューヨーク物語 15 棚井文雄

写真が繋ぐステキな出逢い

 

ニューヨーク物語 14 棚井文雄

 ニューヨークの美味しいビール

 

ニューヨーク物語 14 棚井文雄

「ニューヨーク恋物語」

 

ニューヨーク物語 12 棚井文雄

サイン - あるカップルの事情 -

ニューヨーク物語

プロジェクトオーナーの写真家・棚井文雄氏が、2011年から  (社)日本写真作家協会広報誌に掲載してきました「ニューヨーク物語」を当サイトで引き続き連載いたします。

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