ある日、彫刻家の斎藤誠治氏から電話が入った。斎藤さんといえば、ニューヨークでは言わずと知れた日本人アーティストである。「ナベさんが、ニューヨークで撮影のアテンドをしてくれる人を探しているので、誰かいい人を知らないか」とのことだった。ナベさんとは、渡辺澄晴氏、日本写真作家協会の名誉会長でもあり、お2人は50年来の旧友だ。僕と斎藤誠治さんとの出会いも、渡辺さんが取り持ってくれた。

 渡辺さんがニューヨークに来る事は以前から知っていた。「日本から若いのを一人連れて行くが、20年振りのニューヨークなので現在の様子を知りたい」と何度となく連絡をもらっていたからだ。

 斎藤さんの言葉のニュアンスから、渡辺さんが本当は僕に頼みたいが言い出せないでいることは容易に想像がついた。しかしながら、氏がニューヨーク入りする数週間後には、僕は日本での展覧会を控えており、すでにハードな予定を入れていた。その為、一週間の全日程をアテンドすることは難しいと思った。気軽に引受けて、僕自身が体調を崩してしまっては、滞在期間の限られている渡辺さんの撮影に迷惑をかけてしまうからだ。

 撮影のアテンドは意外に難しい。僕も時折友人に同行を頼むのだが、波長が合い、勘が良く、忍耐力がある人と一緒に動くと、結果として “いい写真” が撮れている。同行者は、常に撮影者の視界を遮らず、カメラを構えた瞬間にはフレームの外にいて、そして安全の確保にも気を配らなくてはならない。言わば ”忍び” のようなものだ。単独で動く撮影にも理由があるので、全てがそうだとは言えないが、信頼出来る同行者がいることによって、撮影に集中出来ることも間違いない。

 これらを踏まえた上で、多少なりとも撮影の知識があり、きちんとした対応が出来そうな知人たちに、“旨いものを喰わしてくれるから”、と話を持ちかけてはみたが、他人の作品づくりの世話をする余裕はないと、ことごとく断られた。確かに、みんな大変な思いをしてここニューヨークで戦っている訳で、その気持ちも解らなくもないが、渡辺さんが日本の写真界にどの程度のコネクションを持っているのかを聞かれた時には(メリットがあるならやってもいい、ということ)、再びこの場所の現実を突きつけられた想いがした。しかしまぁ、これがニューヨークなのだ。

 僕だって、雑誌や広告の仕事を取るための、ポートフォリオ制作をする人にお付き合いする余裕などないが、80歳を超えた渡辺さんが、「最後のニューヨーク」と語って単身ここへやって来るのを放って置く訳にはいかない。これは、信頼するある写真編集者の姿勢から学んだことだが、”仕事であろうとなかろうと、受けたことは責任をもって完全にやり遂げる”、これが僕の信条である。その為の余裕がないと思いつつも、とにかく出来ることを精一杯やろう、そう自分に言い聞かせて僕がアテンドする旨を渡辺さんにメールで連絡した。

 

  ニューヨークJFK空港からは、タクシーでマンハッタンのワシントンスクエアへ向かった。ロングアイランドシティからマンハッタンに架かる橋をタクシーで渡る、それは、ニューヨークへやって来たことを実感出来るとてもすばらしい瞬間だ。渡辺さんも思わず声を上げたようすだった。広場の目の前にあるホテルにチェックインし、すぐに周辺を徘徊した。翌日も、早朝から夜9時まで、軽いランチと夕食の時間を除き、あとはずっとニューヨークの街を歩き回った。これを毎日続けた。

 食事の時には、写真界の裏話や、共通の知人写真家の話で盛り上がった。佐々木崑さんの話が出た時には、氏がお亡くなりになる数年前に、木村伊兵衛氏が歩いた下町を一緒に再訪したり、自宅にお邪魔した記憶などが蘇り、少しセンチメンタルにもなった。そんな時、渡辺さんは「もう一杯飲みなよ」とお酒を勧めてくれた。昆虫写真で有名な崑さんだが、もちろんスナップ写真の撮影も続けており、氏の中国、青島への撮影旅行に同行する約束を果たせなかったことは残念でならない。

 

 「俺は、ハイブリッド写真作家だ」と渡辺さんは言う。確かに、写真はハイブリッドなメディアだ。それはデジタル化されたことで、その意味合いを増したのかも知れない。しかし、渡辺さんのいうハイブリッドとはそれとは異なる。”生活の為に依頼された写真を撮影する職業写真家とは違い、生業の一部を年金で賄える自分は、何ものにも制限されることなく、自由に写真が撮れる ” 。その意味でハイブリッドなのだという。

 石を投げれば本当に写真家に当たるだろう、そう思えるほど、ここニューヨークには写真家がたくさんいる。ある人は、旅行者向けの宿泊施設を経営しているが、休日には写真を撮りに街に出かける。宿経営は趣味であって、職業は写真家としている。また、デジタル化によって誰にでも ”キレイ” な写真が写せるようになったいま、肩書きにフォトグラファーと追加するアーティスト、アーティスト志望者も多い。そんな中で、皮肉とユーモアを込めて、自身を「ハイブリッド写真作家」と語る渡辺さんは、何とも勇ましく潔いではないか。

 

 ニューヨークでの渡辺さんはとにかくパワフルだった。「日本へ戻ったら、50年目のニューヨークを写真集にまとめたい、展覧会を開催したい」と思いは熱い。「最後のニューヨーク」と語っていたが、翌日には「来年も来たい」、そして最後には「10年後、20年後のニューヨークも撮りたい」と言い出した。

「ナベさん、来年も待っていますよ。」と、僕はJFK空港で渡辺さんの背中を見つめながらつぶやいていた。

2013.05.20

 かねてから、写真家にとっての展覧会とは何であるのかを考えていた。写真がデジタル化され、インターネット社会に移行した現代、それは写真家にとって更に意識すべきものになったのではないだろうか。

 

 先月、”越前和紙の里”の主催によって写真展を開催していただいた。僕はこの展覧会の為にニューヨークから一時帰国をしたのだが、これまでにない ”出逢いと再会” を体験することとなった。7〜10年振りに言葉を交わした友人、知人も多かったが、それは再会というよりも、新たな出逢いと言ってもいいほどの新鮮な出来事で、これからの時間をも想わせた。同じように、初めてお目にかかった方々ともすばらしい時間を共有し、そこにも未来に続く永遠の時を感じさせられた。

 

 この写真展には、元々ひとつの “再会” 計画があった。それは、”ニューヨーク物語8 “ に登場いただいた渡辺澄晴さんに、あることをきっかけに疎遠になってしまった中島源房さんとの友情を取り戻してもらうことだった。僕は源房さんとも15年以上に渡る交流をさせていただいており、事前に展覧会の案内状を送付しておいた。そして、おふたりは必ず僕のトークショーの日に来て下さると信じていた。そんな方々だからこそ、この計画を立てた。彼らを展覧会会場で引き合わせ、僕の展覧会という場に免じて何としてでも握手をしてもらおうと目論んでいたのだ。おふたりが会場に入ったことを確認するとすぐに、僕は渡辺さんに近づき「渡辺さん、中島源房さんが来てくれています。行きましょう」と言って、源房さんの目に前に連れて行った。初め彼らは少し緊張した趣だったが、すぐに言葉を交わし、渡辺さんが右手を差し出した。そしてしっかりと握手をしてくれた。この時点で僕はすでに泣き出しそうだったが、トークショーの間も2人は席を並べ、カフェでお茶をする姿も見かけた時には、言葉にならないほどの喜びを感じた。

 

 この日、1日目のトークショーが無事に終わったこと以上に、この2人がかつての友情を取り戻してしてくれたであろう様子がうれしくて、うれしくて、打ち上げでは記憶がなくなるほど飲んでしまった。気がつくと土砂降りの雨の中に一人佇んでいた。すると、びっしょり濡れた僕の髪を美女がタオルで拭ってくれている、そんな妄想をするくらいひどく酔っていた。結果、翌日のトークショーには2日酔いのまま登場するハメとなってしまった。しかし、全ての事情を知っていた関係者がフォローをしてくれたことで難を逃れた、と思う (笑)。これも素晴らしい出逢いがあってのことなのだ。今回の展覧会での ”出逢いと再会”、それはこれからの僕の人生を更に豊かにしてくれるに違いない。

 

 ロンドン時代、100人を超えるポートレイトの撮影を行って感じたことがあった。人との出逢いは、一瞬かも、一日かも、一週間かも知れないが、その人(僕だけの一方的であったとしても)の受け止め方次第では、一生の関係、永遠の存在に成り得るのかも知れないと。事実、ロンドンでモデルになってくれた100人は、遠く離れてはいても、いつも僕の心の中に存在している。その永遠にはさまざまな時間(関係)があるのだろうが、それが大切だと感じたなら、その一瞬から広がる永遠の世界に駆け出し、それを捕まえておきたい、そう思って無意識のうちにシャッターを切っていることもあるのかも知れない。例えそれが心のフィルムであったとしても。

 

2013.7.7

 人生の先輩であり写真家としての友人でもある、岩崎勇氏からメールが届いた。「写真集を出版したので送りたい」とのことだった。さすがにニューヨークまで送ってもらう訳にはいかないと思ったが、いま僕の手の中にある。

 

 ある日、「一生片手に酸素ボンベを持っての闘病生活です。」という連絡をもらった。それまでの岩崎氏の言葉とは思えない、写真家としての何かを奪われたような心の声を感じずにはいられなかった。僕は、角田匡氏(土門拳門弟)から聞いた、土門氏が助手に背負われながら撮影をしていたこと、また木村伊兵衛氏の病床での作品を例に挙げ、「いまの岩崎さんでなければ撮れない写真を撮って欲しい、そしてそれを発表して欲しい。」というメッセージを送った。身体を気遣う言葉ではなく、こんなメッセージを送ることに迷いもあったが、岩崎氏には対写真家としての言葉を伝えたかった。

 

 テレビで氏の活動を知り、うれしくてたまらなかった。

http://www.youtube.com/watch?v=Tr6TUx5QSAQ

「岩崎勇」は、僕等の想いに答えてくれたのだ。

写真家とは何か、それはひとつの「生き方」だ。どんな環境に置かれても写真家としての生き方を貫く、それが「岩崎勇」だ。

進め! 写真家・岩崎勇。

  

2013.10.25

 渡辺澄晴氏の新しい写真集「ワシントン広場の顔」がニューヨークに届いた。1965年に出版された氏の初めての写真集(ニューヨーク・タイムズの書評で紹介された)と同じタイトルである。今回は、当時の作品に合せて、1990年、2013年に渡辺氏が見たそれぞれのニューヨークが収められている。

 

 経済が停滞し、犯罪率が上昇しはじめた1960年初頭、 渡辺澄晴はニューヨークにいた。人種差別による抗争もあったと思われるが、氏の写真からはそんなことを感じさせない。見ているうちに、この時代へタイムスリップしてみたくなって行く。ところどころに写っている当時の”アメ車”が、このニューヨークの街中を行き交っていたのかと想像するだけでワクワクしてくる。そして、そこにいる若者たちに尋ねてみたい「今どんな事を考えていて、夢は何かと...」。

  

 2013年のページをめくっていくと、この撮影には僕も立ち会っていたはずなのに度々見覚えのないシーンが登場する。よくよく見つめることで蘇っては来るのだが、氏が使用していたようなズームレンズは、撮影者が被写体との距離を変えずして(焦点距離を変化させることによって)映像の大きさを変えられるため、そばにいたとしてもどのように画面を切り取っていたのかわからない。一方で、単焦点レンズには小さくて軽いという良さがあり、僕は最近までほとんどのストリート撮影を35ミリレンズ(広角)で撮影してきた。写真家が被写体にどう迫りたいのかによって、構図だけでなくレンズ選びも変わってくる。写真は撮影者によって大きく変わり得るものなのだ。

 

 1962-64年当時、渡辺氏はニコンFを使用していた。当然、ズームレンズではなく単焦点レンズを交換しながら撮影を行っていたに違いない。写真からもそのことが伺える。この50年で、ニューヨークはどう変わったのか? カメラは著しい進化を遂げ、渡辺氏の被写体へのアプローチ方法も変化しただろう。そのような視点からこの写真集を見つめることで、半世紀に渡るニューヨークの変遷と写真家・渡辺澄晴の歴史を合せて探ってみるのも面白い。

  

 ニューヨーカーに年齢はない。誰でも、いくつになっても平等にチャンスがあるとも言える。事実、就職面接などの際に年齢を聞かれることはない。一方で、日本人同士の会話や日本のテレビ番組では、時に「そこまで?」とも思えるほど年齢を意識した発言を耳にする。ニューヨークに本当に平等にチャンスがあるかどうかは別にして、この「年齢がない」という考え方は学ぶべきことだと思っている。「もう、20代、30代の頃とは違って...」などという意識を持つ事は、自ら行動を制限し、肉体を、細胞を殺し衰えさせて行く気がしてならないからだ。 渡辺氏のニューヨークや写真への執心ぶりを見せつけられた時にも同じことを感じた。

 

 しかしながら、JFK空港に着いた直後からあれだけの機材を背負ったまま連日街を歩き回わるなんて「20代の頃とは違って、僕には到底出来やしない」(笑)。

 

 ナベさん、また一緒にニューヨークの街を撮影しましょう。

  

2013.12.23

ニューヨーク物語 11 棚井文雄

「ワシントン広場の顔」

変わるものと変わらないもの

 

ニューヨーク物語 10 棚井文雄

「岩崎勇」という生き方

 

ニューヨーク物語 9 棚井文雄

永遠のフィルム

 

ニューヨーク物語 8 棚井文雄

“ハイブリッド写真作家” in NYC

ニューヨーク物語

プロジェクトオーナーの写真家・棚井文雄氏が、2011年から  (社)日本写真作家協会広報誌に掲載してきました「ニューヨーク物語」を当サイトで引き続き連載いたします。

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