ある日、彫刻家の斎藤誠治氏から電話が入った。斎藤さんといえば、ニューヨークでは言わずと知れた日本人アーティストである。「ナベさんが、ニューヨークで撮影のアテンドをしてくれる人を探しているので、誰かいい人を知らないか」とのことだった。ナベさんとは、渡辺澄晴氏、日本写真作家協会の名誉会長でもあり、お2人は50年来の旧友だ。僕と斎藤誠治さんとの出会いも、渡辺さんが取り持ってくれた。

 渡辺さんがニューヨークに来る事は以前から知っていた。「日本から若いのを一人連れて行くが、20年振りのニューヨークなので現在の様子を知りたい」と何度となく連絡をもらっていたからだ。

 斎藤さんの言葉のニュアンスから、渡辺さんが本当は僕に頼みたいが言い出せないでいることは容易に想像がついた。しかしながら、氏がニューヨーク入りする数週間後には、僕は日本での展覧会を控えており、すでにハードな予定を入れていた。その為、一週間の全日程をアテンドすることは難しいと思った。気軽に引受けて、僕自身が体調を崩してしまっては、滞在期間の限られている渡辺さんの撮影に迷惑をかけてしまうからだ。

 撮影のアテンドは意外に難しい。僕も時折友人に同行を頼むのだが、波長が合い、勘が良く、忍耐力がある人と一緒に動くと、結果として “いい写真” が撮れている。同行者は、常に撮影者の視界を遮らず、カメラを構えた瞬間にはフレームの外にいて、そして安全の確保にも気を配らなくてはならない。言わば ”忍び” のようなものだ。単独で動く撮影にも理由があるので、全てがそうだとは言えないが、信頼出来る同行者がいることによって、撮影に集中出来ることも間違いない。

 これらを踏まえた上で、多少なりとも撮影の知識があり、きちんとした対応が出来そうな知人たちに、“旨いものを喰わしてくれるから”、と話を持ちかけてはみたが、他人の作品づくりの世話をする余裕はないと、ことごとく断られた。確かに、みんな大変な思いをしてここニューヨークで戦っている訳で、その気持ちも解らなくもないが、渡辺さんが日本の写真界にどの程度のコネクションを持っているのかを聞かれた時には(メリットがあるならやってもいい、ということ)、再びこの場所の現実を突きつけられた想いがした。しかしまぁ、これがニューヨークなのだ。

 僕だって、雑誌や広告の仕事を取るための、ポートフォリオ制作をする人にお付き合いする余裕などないが、80歳を超えた渡辺さんが、「最後のニューヨーク」と語って単身ここへやって来るのを放って置く訳にはいかない。これは、信頼するある写真編集者の姿勢から学んだことだが、”仕事であろうとなかろうと、受けたことは責任をもって完全にやり遂げる”、これが僕の信条である。その為の余裕がないと思いつつも、とにかく出来ることを精一杯やろう、そう自分に言い聞かせて僕がアテンドする旨を渡辺さんにメールで連絡した。

 

  ニューヨークJFK空港からは、タクシーでマンハッタンのワシントンスクエアへ向かった。ロングアイランドシティからマンハッタンに架かる橋をタクシーで渡る、それは、ニューヨークへやって来たことを実感出来るとてもすばらしい瞬間だ。渡辺さんも思わず声を上げたようすだった。広場の目の前にあるホテルにチェックインし、すぐに周辺を徘徊した。翌日も、早朝から夜9時まで、軽いランチと夕食の時間を除き、あとはずっとニューヨークの街を歩き回った。これを毎日続けた。

 食事の時には、写真界の裏話や、共通の知人写真家の話で盛り上がった。佐々木崑さんの話が出た時には、氏がお亡くなりになる数年前に、木村伊兵衛氏が歩いた下町を一緒に再訪したり、自宅にお邪魔した記憶などが蘇り、少しセンチメンタルにもなった。そんな時、渡辺さんは「もう一杯飲みなよ」とお酒を勧めてくれた。昆虫写真で有名な崑さんだが、もちろんスナップ写真の撮影も続けており、氏の中国、青島への撮影旅行に同行する約束を果たせなかったことは残念でならない。

 

 「俺は、ハイブリッド写真作家だ」と渡辺さんは言う。確かに、写真はハイブリッドなメディアだ。それはデジタル化されたことで、その意味合いを増したのかも知れない。しかし、渡辺さんのいうハイブリッドとはそれとは異なる。”生活の為に依頼された写真を撮影する職業写真家とは違い、生業の一部を年金で賄える自分は、何ものにも制限されることなく、自由に写真が撮れる ” 。その意味でハイブリッドなのだという。

 石を投げれば本当に写真家に当たるだろう、そう思えるほど、ここニューヨークには写真家がたくさんいる。ある人は、旅行者向けの宿泊施設を経営しているが、休日には写真を撮りに街に出かける。宿経営は趣味であって、職業は写真家としている。また、デジタル化によって誰にでも ”キレイ” な写真が写せるようになったいま、肩書きにフォトグラファーと追加するアーティスト、アーティスト志望者も多い。そんな中で、皮肉とユーモアを込めて、自身を「ハイブリッド写真作家」と語る渡辺さんは、何とも勇ましく潔いではないか。

 

 ニューヨークでの渡辺さんはとにかくパワフルだった。「日本へ戻ったら、50年目のニューヨークを写真集にまとめたい、展覧会を開催したい」と思いは熱い。「最後のニューヨーク」と語っていたが、翌日には「来年も来たい」、そして最後には「10年後、20年後のニューヨークも撮りたい」と言い出した。

「ナベさん、来年も待っていますよ。」と、僕はJFK空港で渡辺さんの背中を見つめながらつぶやいていた。

2013.05.20

 かねてから、写真家にとっての展覧会とは何であるのかを考えていた。写真がデジタル化され、インターネット社会に移行した現代、それは写真家にとって更に意識すべきものになったのではないだろうか。

 

 先月、”越前和紙の里”の主催によって写真展を開催していただいた。僕はこの展覧会の為にニューヨークから一時帰国をしたのだが、これまでにない ”出逢いと再会” を体験することとなった。7〜10年振りに言葉を交わした友人、知人も多かったが、それは再会というよりも、新たな出逢いと言ってもいいほどの新鮮な出来事で、これからの時間をも想わせた。同じように、初めてお目にかかった方々ともすばらしい時間を共有し、そこにも未来に続く永遠の時を感じさせられた。

 

 この写真展には、元々ひとつの “再会” 計画があった。それは、”ニューヨーク物語8 “ に登場いただいた渡辺澄晴さんに、あることをきっかけに疎遠になってしまった中島源房さんとの友情を取り戻してもらうことだった。僕は源房さんとも15年以上に渡る交流をさせていただいており、事前に展覧会の案内状を送付しておいた。そして、おふたりは必ず僕のトークショーの日に来て下さると信じていた。そんな方々だからこそ、この計画を立てた。彼らを展覧会会場で引き合わせ、僕の展覧会という場に免じて何としてでも握手をしてもらおうと目論んでいたのだ。おふたりが会場に入ったことを確認するとすぐに、僕は渡辺さんに近づき「渡辺さん、中島源房さんが来てくれています。行きましょう」と言って、源房さんの目に前に連れて行った。初め彼らは少し緊張した趣だったが、すぐに言葉を交わし、渡辺さんが右手を差し出した。そしてしっかりと握手をしてくれた。この時点で僕はすでに泣き出しそうだったが、トークショーの間も2人は席を並べ、カフェでお茶をする姿も見かけた時には、言葉にならないほどの喜びを感じた。

 

 この日、1日目のトークショーが無事に終わったこと以上に、この2人がかつての友情を取り戻してしてくれたであろう様子がうれしくて、うれしくて、打ち上げでは記憶がなくなるほど飲んでしまった。気がつくと土砂降りの雨の中に一人佇んでいた。すると、びっしょり濡れた僕の髪を美女がタオルで拭ってくれている、そんな妄想をするくらいひどく酔っていた。結果、翌日のトークショーには2日酔いのまま登場するハメとなってしまった。しかし、全ての事情を知っていた関係者がフォローをしてくれたことで難を逃れた、と思う (笑)。これも素晴らしい出逢いがあってのことなのだ。今回の展覧会での ”出逢いと再会”、それはこれからの僕の人生を更に豊かにしてくれるに違いない。

 

 ロンドン時代、100人を超えるポートレイトの撮影を行って感じたことがあった。人との出逢いは、一瞬かも、一日かも、一週間かも知れないが、その人(僕だけの一方的であったとしても)の受け止め方次第では、一生の関係、永遠の存在に成り得るのかも知れないと。事実、ロンドンでモデルになってくれた100人は、遠く離れてはいても、いつも僕の心の中に存在している。その永遠にはさまざまな時間(関係)があるのだろうが、それが大切だと感じたなら、その一瞬から広がる永遠の世界に駆け出し、それを捕まえておきたい、そう思って無意識のうちにシャッターを切っていることもあるのかも知れない。例えそれが心のフィルムであったとしても。

 

2013.7.7

 人生の先輩であり写真家としての友人でもある、岩崎勇氏からメールが届いた。「写真集を出版したので送りたい」とのことだった。さすがにニューヨークまで送ってもらう訳にはいかないと思ったが、いま僕の手の中にある。

 

 ある日、「一生片手に酸素ボンベを持っての闘病生活です。」という連絡をもらった。それまでの岩崎氏の言葉とは思えない、写真家としての何かを奪われたような心の声を感じずにはいられなかった。僕は、角田匡氏(土門拳門弟)から聞いた、土門氏が助手に背負われながら撮影をしていたこと、また木村伊兵衛氏の病床での作品を例に挙げ、「いまの岩崎さんでなければ撮れない写真を撮って欲しい、そしてそれを発表して欲しい。」というメッセージを送った。身体を気遣う言葉ではなく、こんなメッセージを送ることに迷いもあったが、岩崎氏には対写真家としての言葉を伝えたかった。

 

 テレビで氏の活動を知り、うれしくてたまらなかった。

http://www.youtube.com/watch?v=Tr6TUx5QSAQ

「岩崎勇」は、僕等の想いに答えてくれたのだ。

写真家とは何か、それはひとつの「生き方」だ。どんな環境に置かれても写真家としての生き方を貫く、それが「岩崎勇」だ。

進め! 写真家・岩崎勇。

  

2013.10.25

 渡辺澄晴氏の新しい写真集「ワシントン広場の顔」がニューヨークに届いた。1965年に出版された氏の初めての写真集(ニューヨーク・タイムズの書評で紹介された)と同じタイトルである。今回は、当時の作品に合せて、1990年、2013年に渡辺氏が見たそれぞれのニューヨークが収められている。

 

 経済が停滞し、犯罪率が上昇しはじめた1960年初頭、 渡辺澄晴はニューヨークにいた。人種差別による抗争もあったと思われるが、氏の写真からはそんなことを感じさせない。見ているうちに、この時代へタイムスリップしてみたくなって行く。ところどころに写っている当時の”アメ車”が、このニューヨークの街中を行き交っていたのかと想像するだけでワクワクしてくる。そして、そこにいる若者たちに尋ねてみたい「今どんな事を考えていて、夢は何かと...」。

  

 2013年のページをめくっていくと、この撮影には僕も立ち会っていたはずなのに度々見覚えのないシーンが登場する。よくよく見つめることで蘇っては来るのだが、氏が使用していたようなズームレンズは、撮影者が被写体との距離を変えずして(焦点距離を変化させることによって)映像の大きさを変えられるため、そばにいたとしてもどのように画面を切り取っていたのかわからない。一方で、単焦点レンズには小さくて軽いという良さがあり、僕は最近までほとんどのストリート撮影を35ミリレンズ(広角)で撮影してきた。写真家が被写体にどう迫りたいのかによって、構図だけでなくレンズ選びも変わってくる。写真は撮影者によって大きく変わり得るものなのだ。

 

 1962-64年当時、渡辺氏はニコンFを使用していた。当然、ズームレンズではなく単焦点レンズを交換しながら撮影を行っていたに違いない。写真からもそのことが伺える。この50年で、ニューヨークはどう変わったのか? カメラは著しい進化を遂げ、渡辺氏の被写体へのアプローチ方法も変化しただろう。そのような視点からこの写真集を見つめることで、半世紀に渡るニューヨークの変遷と写真家・渡辺澄晴の歴史を合せて探ってみるのも面白い。

  

 ニューヨーカーに年齢はない。誰でも、いくつになっても平等にチャンスがあるとも言える。事実、就職面接などの際に年齢を聞かれることはない。一方で、日本人同士の会話や日本のテレビ番組では、時に「そこまで?」とも思えるほど年齢を意識した発言を耳にする。ニューヨークに本当に平等にチャンスがあるかどうかは別にして、この「年齢がない」という考え方は学ぶべきことだと思っている。「もう、20代、30代の頃とは違って...」などという意識を持つ事は、自ら行動を制限し、肉体を、細胞を殺し衰えさせて行く気がしてならないからだ。 渡辺氏のニューヨークや写真への執心ぶりを見せつけられた時にも同じことを感じた。

 

 しかしながら、JFK空港に着いた直後からあれだけの機材を背負ったまま連日街を歩き回わるなんて「20代の頃とは違って、僕には到底出来やしない」(笑)。

 

 ナベさん、また一緒にニューヨークの街を撮影しましょう。

  

2013.12.23

 

 ご存知のように -16℃ という極寒のニューヨークでしたが、今週は暖かくもう春の訪れかとウキウキしていました。でも、またすぐに寒くなってしまうようです。

 先日アメリカ人男性と結婚した友人から、「まったく英語が上達しない」という相談を受けました。また、やはり英語が共通語の彼氏と3年近く一緒に住んでいるのに、パーティなどで自己紹介をすることさえも難しい、という友人もいます。他にも似たようカップルを知っていますが、彼らの話を聞いてみると毎日同じ会話を繰り返しているだけのようで、あまり深い話はしないというのです。僕は英語の上達ということよりも、二人の関係が気になってしまいました。日本人の察するとか思いやるという心をもってすれば、ある程度は人の気持ちや考えを想像することも可能でしょうが、言葉なくして真に理解し合えるのかどうか少し疑問も感じます。まぁ、二人が幸せならそれでいい訳で、余計なお世話ですね。

 

 現在制作中の僕の作品集には一切の言葉を入れず、代わりに「サイン」としてちょっとした記号を使用しています。言葉がなかった時代の意思伝達を考えれば、言葉を超える、個々のカップル特有の、雰囲気としての「サイン」が存在しているのだろうとは思います。友人でアメリカ人のエミーは、「ネイティブ(母語話者)同士ではないカップルは、本当にお互いを理解することは出来ない、わかり合えない」と断言します。彼女は、言葉とその表現方法をとても大切にしている女性です。

 

 一方で、「わからないからいい」という人もいます。わからなければ喧嘩にもならないというのです。賛否両論あるでしょうが、僕は、わかりたい(笑。「サイン」を探しまくって、色んな意味を妄想してしまいそうです。しかしながら、男女を問わず母語話者同士でも「なぜ?」と思うことがここニューヨークに来て増えました...(苦笑。

 

2014.1.18

 1960〜1970年代、今で言うところの“ちょいワル”写真家たちがジャズクラブにたむろっていた。色々な意味で写真家にとって最高の時代であったに違いない。やがてそんな写真家を代表する一人に師事した僕は、ジャズフェスティバルなど多くのイベントに同行し、世界の名立たるプレーヤーたちを知ることになる。そして、徐々にジャズへの興味を深めていった。フリーとして独立し中国を撮影していた頃には、和平飯店/ピースホテル(上海)のジャズバンドをひいきにしていた。その後、友人のジャズプレーヤーからサックスを習い、ニューヨークではジャズシンガーと出逢うなど、ジャズは更に身近なものとなった。

 

 先日、ある女性からジャズを聴きに行かないかとの誘いを受けた。美女のいざないを断っていてはいつまでも“ちょいワル”にはなれないと、喜んでブルーノートに足を運んだ(笑)。「ブルーノート」といえば、ワシントンスクエア近くに佇む、言わずと知れた名門ジャズクラブである。僕は、約束の時間よりも少し早くアパートを出た。久し振りに渡辺澄晴氏(ニューヨーク物語8)と一緒したあの場所を歩いてみたくなったからだ。気候が良くなってきたこともあって、ワシントンスクエアは多くのパフォーマーとそれを囲む人々で賑わっていた。すぐに、ナベさんがカメラを構えている姿が目に浮かんできた。そして、「きっとこのカップルにカメラを向けるだろうなぁ…」と想像しながら僕もシャッターを切った。

 

 ブルーノートに入ると、開演30分前にも関わらず既に超満員。僕たちはバーの立ち席となった。この日はゲイリー・バートン(ヴィブラフォン奏者)と小曽根真(ジャズピアニスト)のデュオ。僕は、ブルックリンビールを飲みながら「富樫雅彦」のことを考えていた。“ジャズ”といえば真っ先に氏が思い浮かぶ。助手時代、富樫さんの取材に同行したことがあり、それは 「東京FMホール」での出来事だった。挨拶を交わした直後、富樫さんは突然ドラムを叩きはじめたのだ。それもたった2人の為に。さほど詳しくなかったとはいえ名立たるプレーヤーたちの音を聴いていた僕は、富樫雅彦のドラムに大きな衝撃を受けた。そんな思い出話を美女に囁いていると、デュオ演奏が始まった。心地良い音色がクラブ内を染めて行く。しばらくすると、隣の女性がしゃがみ込んだ。心配になって目をやると、床の上にあぐらをかいているではないか。しかも、軽く身体を揺すりリズムをとっている。これぞニューヨーカーだ(笑)。すると、今度は美女がうずくまった。こちらは少し様子が異なる。すぐに外に連れ出そうとも思ったが、幸い大事には至らなかった。きっと、僕が思う日本人の美徳を持ち続けている女性であり、さまざまな気疲れが溜まっていたのかも知れない。真の美女は“かよわい”というイメージを持っているが、「ホンモノだ」と久し振りに思った(笑)。

 

 助手時代に多くの文化人や著名人と接し、時には個人的に会話をするチャンスもあった。中でも富樫雅彦とのような出逢いが僕を育ててくれたのだと、後に感謝の気持ちを抱くようになっていた。そして、いつか写真家として「富樫雅彦に逢いに行こう 」そう思っていたのだが、行動を起こそうとした時にはすでにこの世では逢えない人となり、僕の夢は叶わぬものとなった。「もう少し…」そう思っているうちにかなりの時が過ぎ去ってしまうものだ。きっと、美女にも同じことが言える。この原稿を書き終えたら、すぐにでも“ちょいワル”メールを送ろう。本家“ちょいワルおやじ”パンツェッタ・ジローラモ直伝の秘法で...(笑)。

 

2014.4.16

 

 ニュースなどでご存知かも知れませんが、今夏のNYは冷夏とも言われ、せっかく取り付けたクーラー(ニューヨーク物語7)の出番も少ないままです。

 

 ニューヨークに来て本格的にデジタルカメラを使いはじめたわけですが、同時に晴れた日に撮影に出かけることが多くなりました。その為、この季節に数時間街を散策していると日焼けを避けることは出来ず、ちょっと油断するとすぐに肌がボロボロになります。ニューヨークは、日本よりも紫外線量が多いのです。今年は、積極的に日焼け止めスプレーを使ってはいますが、日本製のようなドライ感はなく、吹き付けると顔はテカテカになり、やがてカメラのファインダーやモニターがヌルヌルしてきます。ついつい手ぬぐいで顔の日焼け止めを拭ってしまいがちです。まぁ、そんな日のお風呂上がりのブルックリンラガー(1)は最高ではあるのですが...(笑)。

  

 今日は、ニューヨーカーたちと日本食レストンで食事をしてきました。初めて食した、というニューヨーカーにも「イクラおろし」は好評でしたが、「たこわさ」は賛否両論。僕はといえば、以前自分で醤油漬けにしたシャケ1匹分のイクラを思い出し、「山盛りのイクラ丼を思いっきり食べたい! 」と心の中で叫んでいました。また、何でも食するのは中国か、はたまたフランスかという話題で盛り上がりました。僕は断然中国だと思っていたのですが、ニューヨーカーからするとフランス人も考えられないものを食していると感じるようです。確かに、犬にしても中国だけでなく韓国でも食べられてきた訳で、エスカルゴ、カエル、ウサギ、馬などのフランス食材もジビエのイメージと共にバラエティに飛んでいる印象を与えるのかも知れません。しかし、かつて広州(中国)の馴染みのレストランで、ネズミや猫を勧められた経験がある僕としてはやはり中国に一票を投じます。

 

 実は、この食事会に参加させてもらったのには理由があり、かねてから岩崎勇氏に氏の写真集「蔵・桜」(ニューヨーク物語 10)をあるご夫婦に渡して欲しいと託されていました。岩崎氏からこの話があった際、「自分の写真集が海を越えて行くなんて思いもしなかった」という内容の手紙をいただき、何か良い機会がないかと模索していたのです。今回はアート関係者との食事会ということで、急遽そこに参加させてもらいました。この写真集を知人夫婦のみならず、業界関係者にも紹介出来たことは大変素晴らしいチャンスに恵まれたと思います。

 

 また、渡辺澄晴氏にも、氏の写真集「ワシントン広場の顔」(ニューヨーク物語11)をかつて書評が掲載されたことのあるニューヨークタイムズ誌に持ち込んで欲しいと頼まれており、しばらく時間はかかってしまいましたが、先頃やっとのことで担当者を探し出して預けてきました。

 

 写真作家として純粋に制作に取り組む両氏の夢、その思いを無事に繋ぐことが出来て、今夜のブルームーン(2)はいつもより美味しく感じます。

 

 (1)ブルックリンラガー 

 苦みとフルーティな香りを兼ね備えたニューヨークの地ビール

 

(2)ブルームーン    

 ベルギー産小麦&バレンシアオレンジピールを使用したビール

   

2014.8.21

 

 NYは久し振りに青空が広がり、いつものようにあてのない散歩に出かけることにした。アパートを出てメトロに揺られること1時間半、車窓からの風景を眺めているといつの間にか終着駅。駅周辺を散策していると墓地を発見、さっそく中に入ってみることにした。これまでいくつもの墓地を訪れたが、ここはちょっと趣が異なる。まるでギリシャ遺跡や凱旋門、ピラミッドを彷彿させるような墓石が目に飛び込んできたのだ。ベンチ型やハートマークのものまで存在する。

 

 いつものストリートスナップのように、撮影は手短に行いカメラはすぐにバックにしまっていたつもりだったが、しばらくすると一台の車が近づいて来た。どうやらこの墓地の警備員のようだ。やはりライカのようなレンジファインダーカメラでの撮影とは異なり、デジタル一眼レフはどうしても目立ってしまう。「こんなことには頻繁に遭遇しているので慣れっコ」と思っていたのだが、今回は車に乗るように言われてしまい車内での尋問。そのまま事務所まで連行された。身分証明書を提示するようにも言われたが、持っていたのは取材用のプレスカード。時にこれはややこしい事態を招くため提示せず。一通りの尋問後、誓約書にサインをさせられた。しかし、その後このガードマンの運転で著名ジャズミュージシャンのお墓を案内してもらえることになったのだ。彼は元警官であり、「あんたは正直そうなので・・・」とのこと(笑)。お礼に、「ありがとう」という日本語を教授させていただいた。NYって、たまにこんなこともあるんです。

 

 ガードマンといえば、僕がまだ写真家の助手時代、「歌って踊れる写真家にはなれないが、何かしてみよう」と思い立ち、何故だったかテニススクールに通ったことがある。スコート姿の美女と楽しくレッスンをしていたことよりも、親しくなったそのビル(テニスコートが屋上にあった)のガードマンを、手に入れたばかりの二眼レフカメラで撮影し、8×10 / バイテン(注1)に引伸したモノクロプリントをプレゼントしたことを鮮明に記憶している。フリーの写真家として独立した時の為に運転には慣れておくべきだと、助手時代から車(親戚の車商から手に入れた19万円のトヨタ・セリカXX)に乗っていた僕は、このガードマンのお陰でいつも関係者駐車場に愛車を停めさせてもらっていたのだった。

 

 ある日、このガードマンから教えられたことがある。「もしどこかに人が倒れていたら、ちょっとでも触ってはダメだよ。必ず人を呼びに行くこと。その人が亡くなったりしたら、触ったことを問題にされてしまうことがあるからね」、「君は、真っ先に助けようとしそうだから心配だ」と。確かに、ボーイスカウト時代に一般的な応急処置や人工呼吸も学んでおり、率先して行動に移すように指導されてきた。森永さんという方だったが、写真家として独立した頃にはビルが立て替えられ、その報告も出来ないままになってしまった。これも僕の十字架のひとつだ(ニューヨーク物語 5)。

 

 最近、尊敬するある写真関係者のお嬢さんと知り合いになった。彼女に墓地での出来事を話すと、「これからも記憶に残る人に、たくさん会えることを願ってますーー ! 」というメールが届いた。これは僕へのメッセージであると共に、彼女自身の願いでもあるのだろう。

 

 色々な人がいて色々なことが起こる世の中で、生涯の記憶に残るような人との出逢いはとても貴重でステキなことだ。

 

(注1) バイテン:8×10インチ、フィルム印画紙サイズの定番のひとつ

 

2014.10.8

 

 先月の中頃、日本に住む友人から「柿の収穫中です。」というメールが届き、親戚の家で柿やビワの実を捥いで食べることを楽しみにしていた子供時代を想い出した。実家の一隣にも大きな柿の木があり、年に一度お裾分けをいただいていた。小学2-3年生の頃だっただろうか、自分でも実を生らせてみたくなり、柿とビワの種をそれぞれ大きな鉢に植えた。柿は上手く育てることが出来なかったが、ビワの木は3-4年をかけて60-70cmまでに成長させた記憶がある。「桃栗3年、柿8年」という位だから、ビワも8年もすれば実を生らせるに違いないと楽しみにしていたが、その願いは叶うことなく終わった。

 

 ある日、近所の子供たちがボール遊びの最中にビワの茎を折ってしまったのだ。僕はその木を抱きながら、薄暗くなった部屋で電気も灯さずにいつまでも泣いていた。そして、あれからビワを食べなくなってしまった。先頃、ニューヨークで食する機会があったものの、やはりあの想い出のように渋味が強かった。

   

 この季節になると、こちらのストアーにも柿が並ぶ。富有柿(注1)に由来するのか「fuyu(ふゆ)」という名で知られている。この文字を見る度に、「今年もあの寒さが近づいて来たかぁ」と、あるシリーズ作品撮影の為に真冬の街角に何時間も佇んでいた日々を想い出す。

   フィルム時代、カメラには多くの金属が使われており冬場の撮影では冷たくつらかった記憶がある。しかし、あの握った瞬間の冷やっとする金属特有の感触と、視覚的な質感があってこそ道具として愛着を持てたように感じる。それは、幼年期のブリキのオモチャの感触や体育館のトタン屋根が作り出す雨音のような、ある瞬間に心地よく呼び起こされる感覚記憶に似ている。現在、実家のドライボックスの中に眠っている僕の愛機たち、ニコンF2、ライカM6、オリンパスOM-4に久し振りに触れてみたくなった。

   (注1) 富有柿/ふゆうがき : 岐阜県瑞穂市が発祥とされている甘柿

 

2014.11.6

 昨秋、ニューヨークでトークショーを行った際に、友人を通じてアーティストのSanaeさんに出逢った。その場で誘われるまま、彼女の作品制作に参画することになった。約1年の時を経てプロジェクトを開始したが、その中で、お互いにジェラルド・ジャクソンというアーティストと関わりがあることを知った。何と、渡辺さんの写真集、『ワシントン広場の顔』1965 年版に、Sanaeさんの恩人であるジェラルドが写っているというのだ。15年前、彼女が初めてNYにやって来た際にジェラルドと出逢い、真っ先に聞かれたことは、写真家の渡辺澄晴を知っているか?ということだった。「知らない」という答えに対し、彼はあきれた顔でこう言った。「有名な写真家だ、僕らがワシントンスクエアでアヴァンギャルドなことをしていたので、Sumiharu Watanabeが興味を持って写してくれたんだ」。

 

 昨春、渡辺さんがニューヨークに来た際には、何度となくワシントン広場を訪れた。その度に、僕に熱く想い出を語りながらかつての友人たちを探し続けていた。その一人がジェラルドだったのだ。もし、あの時に僕がジェラルドに出逢っていれば、二人に素晴らしい再会のサプライズをプレゼントすることが出来たのに...そう思うと悔しさでいっぱいになった。しかし、Sanaeさんからの提案もあって、僕が渡辺さんに代わって現在のジェラルドを撮影することにした。

 

 メトロを乗り継ぐこと約1時間半、ジェラルドは閑静な住宅街に居を構えていた。テーブルの上に溢れ返るたくさんのモノたち、それがこの部屋での彼の歴史を物語っていた。ジェラルドはすぐさま、1965年版の『ワシントン広場の顔』を見せてくれた。実は、僕はこれを見るのは初めてだった。すでに渡辺さんの手元にも1冊しかなく、欧米のネットオークションではかなりの高値がついている。ページを捲っていくと、カメラを構えた渡辺さんが当時のニューヨーカーたちに体当たりしていく様子が良く伝わってくる。そして、ジェラルドのことは彼のアトリエや展覧会会場にまで足を運び撮影をしていたのだ。写真集に夢中になっていると、「俺を撮ってくれよ」と言わんばかりにジェラルドは奥の部屋にあるソファに腰を下ろした。僕は2013年版の『ワシントン広場の顔』をプレゼントし、渡辺さんを想い浮かべながら夢中でシャッターを切った。一枚の写真によって、50年に及ぶ渡辺さんのNYへの想いと二人の友情を再び繋ぎたいという気持ちでいっぱいになった。

 

2014.11.11

 ご心配をおかけするといけないので先にお伝えしますが、被害に遭ったのは僕ではありません。前回、「届かないEMS」の話を書きましたが、これは、ニューヨークに長期滞在中の知人宛に送られた荷物で、その行方を一緒に探していた最中、その知人が現金数百ドルとクレジットカード、その上、部屋の鍵まで入っていた財布をスラれてしまったのです。

 

 「一瞬、(袈裟掛けにしていた)バックが重くなるのを感じた」というのだが、その時には気にもかけず後に確認すると財布がなかったのだ。しかもこの犯人、ご丁寧なことに財布を抜いた後、バックのファスナーを締めたようだ。”みごと”としか言いようがない。

 

 数年前、タイムズスクエアでパレードを見ていた友人も何者かにカメラを奪われ、もう一人は似たような状況で、バックの中のカメラが消えた。日本の保険会社への請求に際して、ニューヨーク警察へ書類申請をする友人に同行したのだが、これには結構な手間がかかった。

 

 まずは近くのポリスオフィスで事情を話すと、隣駅のオフィスに行くように言われ、その足で向かってみたが誰もいない。翌日、再びそこで説明をするものの、それなら...とまた別の住所を教えられる。場所を確認後、日を改めてそこを訪れると、テレビや映画で良く見かけるNYPD(New York City Police Departmentの略称)のロゴが入ったパトカーたちが建物の前に無造作に駐められ、○○分署と名称が掲げられた外観が目に入ってきた。建物の中に入ると、やはりテレビの中と同じように警官たちが忙しそうに行き来しているのかと思いきや、カウンターから離れた場所でそれぞれの仲間との話に夢中だ。やっとのことで一人の女性警官を捕まえたが、「バックの中から取られたなんて信じられない」と詳しい話も聞いてくれずにどこかへ行ってしまった。仕方なく別の警官に4回目となる説明を繰り返す。すると今度は何ですぐに来なかったのか(事件から時間が経過している)とお叱りを受けた。「たらい回しにされたんだ」と言いたい気分だったが、ここで警官の機嫌を損ねる訳にもいかない。改めて尋問を受けるかのように質問に答え、書類に状況が記入されていく。しかし、これが処理されて被害届けが郵送されるまでに一ヶ月間程度かかると言うのだ。何て仕事の遅い国なんだ、と飽きれてしまった覚えがある。

 

 ロンドンに住んでいた頃は、携帯電話のスリに遭う友人が多かった。英語でスリのことをピックポケット(pickpocket)というが、停留所でバス待ちをしている列の背後から、またはバスの中で、言葉通りコートなどの “ポケット” から引き抜かれてしまうのだ。フラット(アパート)に空き巣に入られて、パソコンやカメラなどの盗難被害に遭った知人も少なくはない。2005年には同時爆破テロ(地下鉄3ヶ所とバスが爆破される)があり、人々はそれまで以上に警戒していたとは思うが、相変らずスリ被害は頻発していた。

 

 また、ニューヨークでは、ここ数年iPhoneの略奪が続いた。通話中にいきなりひったくられるのだ。ブルックリンに住む知人は、帰宅途中、突然、けん銃(モデルガンかも知れない)を片手に近づいて来た少年にひざまずかされ、銃口を額に押し当てられた。「身体が震えた」と彼女は語っていた。やはり、iPhoneが目的だった。

 

 僕は、これまでにいくつもの都市を旅して来たが、特に目立った被害に遭ったことはない。イタリアの郵便局で切手を買う際に数千円ごまかされた(渡した金額が実際の半分だと言い張る)くらいだろうか。とはいえ、ウィーンで二人組のオトコに長時間付け回されたり、パリで偽警官と思われるやはり二人組に挟まれてしまったり、夜の南スペインの駅ビル内で数人のオトコたちに荷物を狙われたり、また、ニューヨークの駅のトイレでは怪しいオトコたちに囲まれていく様子に気づき、ジーパンのチャックを下ろしたまま逃げ出したこともあった。

 それでいて何事もなかったのは、ボーイスカウト時代に培われた危機管理への心構えによるものなのか、単に運がいいのかはわからないが、一度被害に遭うとそれが連鎖してしまうケースもあるようだ。もう昔のことだが、ニューヨークのアパートの入口で二人組のオトコに捕まり部屋に押し入られ、シェアをしていたルームメイトは殺害され、本人も大けがを負った知人がいる。彼は、それ以前にも他の都市で金品を奪われる被害に遭遇しているのだ。

 

 多くの写真作家、職業カメラマンもそうだろうが、僕もカメラを持つとより興味深い場所、ベストなカメラ位置を求めてついつい一歩も二歩も足を踏み入れてしまう。つい先日も、交差点内での撮影中に車と接触した。回りにいた人から大きな声も上がったが、幸いにも厚いジャケットを着ていた為に、それにスリ傷が付いた程度で済んだ。信号のない交差点内で立ち止まっていた僕が悪いのだが、街中の撮影ではよくやることなので、せめて車幅くらいは把握して運転して欲しいと思ってしまう。ニューヨークのメトロ利用者が、降車する人に構わずどんどん車両内に入って来るように、同じような激しいドライバーも多い。また、ブロンクス(注1)のアパートビルを撮影した直後、どこからか奇声が聞こえ、しばらくして、ものすごい勢いで近づいてきたオトコともみ合いになりかけたのは最近のことだ。

 

 今回、僕がそばにいながらスリに遭わせてしまったこと、そこまで気が配れなかったことを悔やんでも悔やみきれないが、ともあれ、これまで怪我もなく無事でいられたことに感謝したい。これといった信仰は持っていないが、もうすぐクリスマス。「国民の約80%がキリスト教を信じている」、とも言われるアメリカに住んでいるのだから、この日くらいはゴスペルでも聞きながら神に感謝の祈りを捧げてみよう。年が明けたら、今度は仏さまに願い事をしますけど...(笑)。

 

(注1) ブロンクス : ニューヨーク市の最北端に位置し、危険なエリアとして最初に名前をあげられることが多い。

 

2014.12.10

 

 一昨年の暮れのこと、ポストに不在連絡票が入っていた。「9:30amに配達に来た」とされてはいたが、僕はその時間は部屋にいて、ブザーが鳴ることもなかった。しかし、ニューヨークではこんなことも日常茶飯事。6階建てのアパートといえどもエレベーターがないことも多く、階段で重い荷物を運ぶことが嫌なのか、時間がないのかはわからないが、紙一枚を残してすぐに立ち去ってしまうのだ。再配達希望は全てのエリアで行われる訳ではなく、仮に可能だったとしても時間指定はあってないものと考えた方が良い。僕のアパートからは、郵便局へは歩いても行けるが、民間配達業者の営業所はとても不便な場所にあり、バスを乗り継いだり、タクシーで受け取りに行く羽目になる。

 つい先頃も、日本から発送されたEMS(国際スピード郵便)が届かない。発送者に確認してみると、ストリート名や番地、アパート番号に違いはないが、ZIPコード(郵便番号)を一桁間違えて記入してしまったようなのだ(例えば10011を10012と記入してしまったということ)。ウェブサイトで荷物を追跡してみると、ZIPコードの管轄局までは届いたことになっている。しかし、それぞれの管轄局や本局を訪れてみても、その荷物は1ヶ月以上経過した現在も見つからない。郵便番号が違うだけでこのあり様なのだ。日本なら、少し配達が遅れたとしても確実に届くであろうに...。

 

 さて、一昨年の僕宛の荷物だが、発送者がわからないまま郵便局に受け取りに行くと、その箱はサイズの割に重く感じられた。伝票を見ると、友人の越前和紙ソムリエ、杉原吉直氏からだ。新しい和紙のテスト品だろうか...、そう思いながら開封すると、何と中から大きな鏡餅が出てきたのだ。実は、僕は大のお餅好き、それをニューヨークまで送ってくれたことに甚く感動した。そして、そんな餅好きの舌をこのお餅は唸らせた。いつものように焼き網の上で丁寧に炙り、たっぷりと醤油をつける。すると、いままで味わったことのないフワフワの食感と共に、越前のお米の美味しさが際立ってきたのだ。

 

 二年続けてこのお餅を堪能させてもらったのだが、今年はもうすでに手元にある。今回は民間業者による配達だったが、アパートに帰ると一階のエントランスに放り投げるようにその箱は置かれていた。まぁ、そんなことはさておき、無事に届いた好物のお餅、いまからお正月までなんて待ち遠し過ぎる。すぐにでも焼いて食べてしまいたい気分だ。しかし、ニッポン人の心ともいえるお餅の贈りもの、「お正月飾り」という伝統を経るまではまた今年も我慢の日々...。2015年のお正月は、どんなお雑煮で迎えようかと思いが膨らむ。

 2014年、お餅以外にもたくさんの「恋しい」モノをニューヨークまで送ってくれた方々がいる。改めて、Thank you so much ^^

 

 2014.12.5

 

 ニューヨークで一番ワクワクする季節がやってきた。毎年、ロックフェラーのクリスマスツリーが点灯される頃には、いたる所からクリスマスソングが聴こえてくる。お店や通りにもたくさんの飾り付けがされ、街中がクリスマス一色になるのだ。

 

 この時期の風物詩と言えば、スケートリンク。映画「オータム・イン・ニューヨーク」や、「セレンディピティ -恋人たちのニューヨーク-」のワンシーンを想い浮かべる人も少なくないだろう。今日も、リンクの上は恋人たちでいっぱいだ。

 Merry Christmas & a Happy New Year!

2014.12.18

新年おめでとうございます

日本のお正月はいかがですか?

 

 12月上旬にニューヨークから日本へ発送したクリスマスカードが、未だに届いていない。全てではないが、「僕のクリスマスカードは届きましたか?」と、確認する訳にもいかず何とも悩ましい限りだ。かつて、中国のある都市から発送した150枚近い年賀状、これは一通も届くことはなかったようだ。きっと、日本へも送られなかったのだろう。また別の都市では、郵便局に行く時間がなく、ホテルマンに書き上げた葉書と日本までの切手代を渡したことがある。あの年賀状たちは無事に届いていたのだろうか…。

 

 ご存知のように、アメリカでは新年の挨拶を「メリークリスマス&ハッピーニューイヤー」というように、クリスマスと一緒に行う。カードは、12月に入った頃には発送し始め、いただいたものは、映画のシーンなどのように、クリスマスや新年まで部屋に飾ることが多い。また、お金を同封することもある。僕自身、ある代表の方から手渡されたクリスマスプレゼントに添えられていたカードに、ドル紙幣(撮影のお礼だと思われる)が入っていた。

 

 日本でのクリスマスプレゼントは、大人から子供へ、もしくは恋人同士のイメージがあるが、ニューヨークでは、友人や親族間などの大人同士でも行われている。しかも、そこには日本では考えらない世界が存在する。もし、もらったプレゼントが気に入らなかった場合には、交換に行くのだ。そんなことが出来るのもプレゼントに販売店のギフトレシート(金額は記載されていない)を同封しておくからで、事実、僕の知人はコートの色が好みではないと、他の色に交換していた。さすがは返品大国アメリカ。ハロウィンやクリスマスパーティで着た衣装をそのまま返品する人もいるくらいなので、そんなことには慣れているのだろう。

 

 日本にいる頃には、お正月に配達される年賀状がとても待ちどおしかった。家族写真が送られてくることには賛否両論あるようだが、僕は友人の変化やご家族の様子を楽しんでいた。しかし、企業からの葉書のように形式的な文章だけが印刷されていると、どこか寂しい気持ちになったものだ。そう思うと、自分の年賀状には生きた言葉を書きたくて、いつも膨大な時間を費やしていた。そんな年賀状もメールの時代になりつつあるが、いまでも僕の日本の住所に送っていただいたり、声の聴こえてくるような挨拶メールを下さる方々がいる。ニューヨークに住んでいると、日本でこうした人たちと関わって生きていきたい、益々そんな気持ちになる。

 

 一瞬にして世界と繋がるかのように感じるインターネット社会、だからこそ、紙などの媒体に記された文字や写真、そういうモノをとても愛おしく感じる。

 

2015.1.3

 現在、僕が作品制作に参画しているアーティストのSanaeさんから、「友人でバレリーナの貴子さんと、そのお母さまの照恵さんが日本から遊びに来ているので、ぜひ紹介したい」と言われていた。しかし、その機会なく貴子さんは帰国されてしまった。

 

 バレエと言えば、我々JPAには、その世界では言わずと知れた写真家、飯島篤氏(名誉会員)がいる。日本人バレエダンサーとして初めて国際的に活躍した、 ”世界のプリマ”森下洋子さん、その多くの写真集は飯島氏の撮影によるものだ。かつて、僕がJPAの理事になったのも飯島氏の存在が大きく影響しており、氏の言葉と、あの人柄をなくしてこの仕事をすることはなかったであろう。僕自身は、これまでバレエとの関わりは少ないが、以前、フラッシュライトによって演出(注1)されたヨーロッパのバレエ公演や、ニューヨークに於いて、アメリカン・バレエ・シアターのプリンシパルでもあった、ホセ・カレーニョのポートレイトを撮影したことがある。

 

 Sanaeさんに飯島氏のことを話すと、先日、お母さまの照恵さん(バレエスタジオ代表)と共に僕のアパートを訪ねてくれた。話を聞くと、照恵さんは飯島氏が撮影した迫力ある森下洋子さんの姿に感銘を受け、そこに(森下さん同様に)小柄な自分の姿を重ねていたという。飯島氏の写真は、若き日の彼女の支えとなっていたのだ。また、お嬢さんの貴子さんの舞台を飯島氏の元で学んだ写真家が撮影したこともあるそうだ。この話をきっかけに、僕たちは人生論から政治・社会問題まで様々な話題で盛り上がることとなった。照恵さんは子供の頃、バレエの稽古が出来ない環境にあり、窓からレッスン風景を見つめるだけの日々が続いた。やがて、彼女の情熱を知った兄弟やバレエ教師のサポートもあって、努力を重ねながらこの道を突き進んで来た。欧米での研修経験も多く、世界をまたにかけたその人生は波乱万丈だ。それは、発する言葉からも感じられるほどのあり余るパワーにもよるのだろう。

 

 「一緒に写真を撮りましょう」、そう言われて照恵さんの隣に並ぶと、彼女は腕組みをすると同時にスッーと片脚を引き上げポーズを決めた。僕がその真似をすると、「同じポーズをしてはダメ」と指導が入った。もっと背筋を伸ばして!とも(笑)。当然といえば当然であり、僕が語るにはおこがましいが、絵作り、モノの見せ方(表現)を熟知している。デジタル化によって、よりハイブリッドなメディアとなった写真、それによって進化せざるを得なくなった写真作家の生き方。こうした異なる世界の「見せ方」の中に、これからの写真作家のあるべき姿のヒントが隠されているかも知れない。

 

(注1) カメラのフラッシュのような強い光を点滅させ、発光した瞬間だけ舞台を浮かび上がらせる。迫力のある衝撃的な演出を生み出す。

 

2015.1.30

 照恵さん(ニューヨーク物語22)からの誘いで、絵描きの友人と共に貴子さんが演じた『ジゼル』のDVD鑑賞のため、滞在先であるタイムズスクエアのアパートにお邪魔した。その後、大雪の中、Sanaeさんが参加するパフォーマンスショーへも足を運んだ。

 

 しかし、何とパソコンの調子が悪く、音が出ない上、飛び飛びの映像で『ジゼル』を観る羽目となってしまった。それでも、この舞台演出を行った照恵さんの解説によって、バレエへの世界観が変わっていく感覚を覚えた。

 

 写真の世界に於いて、写真作家の行為は被写体の光と陰(ハイライトとシャドー)をフィルムを通じて反転(ネガ)し、さらに暗室での現像で化学反応させた銀の粒子によって一枚の紙の上に表現される。物質を他の物質に(印画紙に焼き付ける)置き換える行為である。

 

 バレリーナの中西貴子は、『ジゼル』という被写体(対象)を自らの肉体に投影し化学変化させ、それを舞台の上に焼き付けるかのように舞う。そこには写真作家同様それまでの彼女の生き様が現れてくる。全幕を演じ終え改めて舞台に現れたプリマ・中西貴子、その姿に同じく"美"を追求する者として共感を覚えた。何かが吹っ切れたような、それでいて充実感に満ち溢れた表情で登場したのだ。本来ならば、直前に演じた亡霊の余韻を残しつつ新たな見せ場を作ることが演出の王道であるのかも知れないが、これぞ「暗く長い挫折の日々を経験した」中西貴子なのであろうと感じた。

 

 僕は、絵画や写真などの芸術作品を見る際、その作品から作家の"葛藤"が伺えた時に、その行為に対して敬意と讃称の意をおくる。自分にとって「芸術作品」とは、葛藤の賜物であるとも考えている。しかし、広告など人々の目を引く為にインパクトを与えた写真やイラストとは異なり、こうした作品に秘められたその痕跡を探ることは容易ではない。まるで精神修行のように辛抱強くその作品と対峙することからはじまるのだ。

 

 このような物質化、物質変換を行う絵画や写真行為とは異なるが、バレエの世界に於いて、美しい手脚を持ち、全てに恵まれているとされる中西貴子だからこそ直面した苦悩もあっただろう。奔放な母親と比較され、心痛めることもあったに違いない。そんな彼女の抑えることの出来なかったあの表情にこそ、それまでのバレエ人生の葛藤が映し出されていたように思う。長野オリンピックの際、不振に苦しみ、本番に弱いと言われたスキージャンプの原田雅彦、やがて優勝を飾った時の彼の表情にそれまでの葛藤を見たのは僕だけではないだろう。

 

 パフォーマンスショーだが、薄暗い舞台の上に数種類の異なるカラーライトによって、何かにもがき苦しむような、うごめく人間たちの姿が映し出される。それぞれの役者はSanaeさんの動きに反応するかのように舞っていくのだが、たびたび現代社会への問題提起とも伺えるシーンが訪れる。本来、彼らの考えや心理を探るものでないことは承知だが、その想いと共に何処へ向かおうとしているのか、それぞれのパフォーマーのことが気になった。しかしそれは、「お前は何処から来て、どこへ向かうのか」そう問われているようでもあった。現在、Sanaeさんは、様々な手段を用いて自己表現を行っている。これは15年に及ぶ彼女のニューヨークでの葛藤が生み出したひとつの答えなのだろう。

 

 ニューヨークには、底なしの野心を抱いた無数のアーティスト、アーティスト志望者がいる。僕は「野心のすすめ」は出来ないが、本来、葛藤こそが真の芸術作品を生み出すと考えている。バレリーナ・中西貴子、アーティスト・Sanaeの”葛藤”に敬意を表して。

2015.2.23

 渡辺澄晴氏の写真展「ワシントン広場の顔」が、新宿のギャラリーで開催された。渡辺氏は会社の命によって1962-64年の2年間ニューヨークに住み、その後1990年、2013年の2度に渡り再訪し、このシリーズを撮り続けてきた。一昨年(2013年)の撮影には僕も同行したこともあり、この写真展にはどうしても駆け付けたかった。会場を覗き込むと、かつて理事会でご一緒した頃と同じくスーツ姿の凛々しい「ナベさん」と目が合った。そして、「いつ帰って来たの?」と、笑顔で迎え入れてくれた。2年振りのうれしい再会だった。ナベさんは変わらずお元気で、会場にいた皆さんに僕を紹介してくれると共に、ニューヨークでの撮影秘話を熱く語りはじめた。

 

 「あの頃のニューヨークでは、キャデラック(注1)を買うかニコンF(注2)を買うか、そうも言われていた。僕はそんな時代に2台の“キャデラック”を肩に掛け、毎週末ワシントン広場に出かけて行ったんだ。」そう語る渡辺氏は、他の駐在員たちが休日のゴルフを楽しむ中、ひたむきにニューヨーカーにカメラを向け続けたのだ。結婚後間もなくニューヨークへの赴任を言い渡された渡辺氏、その寂しさを作品制作のエネルギーに変え、このシリーズは生み出された。

 マンハッタンのアパートに暗室を作り、夜になると撮影したTRY-X(コダック製フィルム)を現像する。すると、いつものように向かいのアパートの窓越しに妖艶な人影が浮かび上がる。お客を連れ帰って来たストリートガールの姿だ。1960年代のニューヨークと言えば、暴動が多発するようになり、最悪の治安と社会情勢へと突き進んで行った頃だ。

 

 これまでに3冊の写真集が出版されたのだが、1965年版の「ワシントン広場の顔」は、渡辺氏の手元にさえもストックがなく、海外のネット販売では数万円の値が付くほど大変貴重な一冊となっている。この写真集は、あの、“ニューヨークタイムズ”の書評にも取り上げられ、現在でも「写真家のナベさん」として同世代のニューヨーカーの記憶に残っている。2台の“ニコンF”と共に、若者の中に突進して写し撮ったあの作品群を見れば、当時、“ライフ” (グラフ雑誌・注3)が渡辺氏をスカウトしたという話にも納得がいく。しかし、「結婚したばかり...」という思いもあり、渡辺氏はその話を断ってしまったのだ。そこには計り知れない苦悩があったであろう。

 

 今回の展覧会で、初めてナベさんから「金丸重嶺(注4)」の名を聞いた。金丸氏は僕の高校の大先輩でもあることから、早くからその存在を知ってはいたが、渡辺氏の代表作のひとつとも言える「黒人男性と指を絡ませた美しき白人女性 / 1962-64年撮影」は、その金丸氏の目に止まったことで、“アサヒカメラ”への掲載が決まったというのだ。時を同じくして、白人と有色人種とを差別する人種隔離政策に対する、反アパルトヘイト運動に身を投じていたネルソン・R・マンデラ氏(注5)が国家反逆罪で終身刑の判決を受けて投獄された。

 

 この展覧会には、写真作品以外にもこれまでの渡辺氏の多くの著書が並び、僕がお邪魔していた間だけでも、たくさんの渡辺ファンや、氏のワークショップ受講生が引っ切り無しに訪れていた。渡辺氏の撮影スタイルは、時代と共に変化した。近年の撮影では、かつての記憶を辿るように、現在のニューヨークとその記憶を結び合わせるように穏やかな目線で街や人を見つめている。一方で、いまなお湧き上がる気鋭な制作意欲で満ち溢れる「写真家・渡辺澄晴」、氏の新たな都市での作品も見てみたくなった。

 

 「ナベさん、今度は一緒にヨーロッパへ撮影に行きましょう!」

 

 

(注1) キャデラック : イギリスのロールス・ロイス,ドイツのメルセデス・ベンツに並び、世界を代表するアメリカの高級車ブランド。

(注2) ニコンF : 1959年発売。ニコン初の一眼レフファインダー式カメラ。交換レンズ群やアクセサリーなどの周辺機器も用意され、それらを活用することよって多くの撮影シーンで活躍した。1966年、グッドデザイン賞を受賞。

(注3) ライフ : アメリカで発行されている写真を中心としたグラフ雑誌。撮影、記事、レイアウトなど編集を一貫させ、アメリカの思想・政治・外交を世界に発信している。

(注4) 金丸重嶺 : 1900-1977年。写真家、写真評論家、写真教育者。商業写真の草分け。現日本大学芸術学部の教授、理事、学長、そして日本写真協会副会長、日本広告写真家協会会長などを歴任。著書「写真芸術を語る」など。

(注5) ネルソン・R・マンデラ : 1918-2013年。南アフリカ共和国の政治家、弁護士。1964年、国家反逆罪で終身刑の判決を受けるが、27年間に及ぶ獄中生活の後、1990年に釈放される。第8代大統領、南アフリカ共産党中央委員などを歴任。ユネスコ平和賞、ノーベル平和賞などを受賞。

  

2015.6.20

 工藤一義氏から、写真集「世界文化遺産 宮島厳島神社 視点」が届いた。

 1996年、原爆ドームと共にユネスコ世界文化遺産に登録された、広島湾に浮かぶ厳島(宮島)に鎮座する「厳島神社」。広島広告写真家協会の会長を務める工藤氏は、その卓越した撮影テクニックと共に、この世界文化遺産と半世紀近く向き合って来た。写真集には、時に工藤氏がレンズそのものとなってフィルムに焼き付けた、むき出しの厳島神社の姿が収められている。そのことが、確かな記録と記憶として、残すべき一冊に仕上がったのであろう。定点撮影による四季の移ろいや、朝靄、黄昏、そして花火に包まれる厳島神社、その優美さに、この写真集を手にした人は魅了されるに違いない。

 

 神社と聞くと、想い出す場所がある。埼玉県のある神社に「ムササビ」の写真を撮りに通っていたことがあるのだ。当時中学一年生だった僕は、佐藤くんという二つ年上の先輩に連れられて電車とバスを乗り継ぎ、まだ陽のあるうちにその場所へ向かう。あとは、音を立てないように神社の木々の下でジッと時を待つ。カサカサ、という音が聞こえると、佐藤くんとお揃いの懐中電灯で、音源を探す。ムササビが現れる頃には最終バスもなくなり、撮影が終わっても朝まで神社の社屋の前で再びジッとしているしかない。

 

 その日は、深夜から大雨が降り続いた。寒くて寒くて震えが止まらず、僕たちは駅までの道をバス停を辿りながら歩くことにした。駅に着いた時には、すでに始発の時間になっていた。それからどの位してからのことだったのか、あまりのショックの為に記憶が飛んでしまったが、もう二度と佐藤くんと一緒に撮影に行くことが出来なくなってしまった。彼は、あまり体が強い方ではなかったのだ。その後、何度となくその神社にムササビを撮影しに行き、同じ場所で朝まで独りで過ごした。それは、高校生になってからも続いた。いま思えば、佐藤くんに会いに行っていたのだと思う。いまでも、「た、な、い、く〜ん」と、玄関先から声をかけてくる彼の姿が瞼に浮かぶ。佐藤くんから譲り受けた懐中電灯は、いまも遺品として僕の手元にある。 

 

 写真集「世界文化遺産 宮島厳島神社 視点」に話を戻すが、たくさんの写真の中に入り込んでいる、厳島神社を執拗に追い続ける工藤氏が、ふと空を見上げたであろうと思われるシーンが好きだ。一見、何処なのか、いつなのか判然としないものもある。しかし、その時、写真家・工藤一義は、確かに「そこ」にいたのだ。そして、鎧から解き放たれた工藤氏の作家魂と、その場所とが交錯した瞬間なのだ。

 

 工藤氏にも、半世紀に及ぶ厳島神社とのたくさんの思い出があるに違いない。今度、じっくりと話を聞いてみたい。

 

2015.7.10

※写真は、工藤一義会員の写真集「世界文化遺産 宮島厳島神社 視点」より。

 友人に誘われて、久し振りに試写会を訪れた。

『フリーダ・カーロの遺品 - 石内都、織るように』

 この映画は、小谷忠典監督が、メキシコの「青い家」(フリーダ・カーロ博物館)に於いて、石内都氏のフリーダ遺品撮影の過程を追ったドキュメンタリーである。

 

 僕とフリーダとの出会いは、ジュリー・ティモア監督によって製作された『フリーダ』(2002年)だった。フリーダ・カーロ、1907-1954年。父親は職業カメラマンだった。6歳で急性灰白髄炎にかかり、18歳の時には、交通事故によって重い後遺症を負った。その長い入院生活の中で本格的に絵を描きはじめたという。やがて、21歳年上の画家、ディエゴ・リベラと恋に落ちる。リベラの女性関係は激しく、それに抵抗するかのようにフリーダも他の男性との恋を重ねていく。

 

 二人の愛の形はとても衝撃的で、忘れられないアーティストとなった。彼らは、仕事の為に都市を転々とするが、1930年代初頭にはニューヨークに滞在し、フリーダの初の個展もニューヨークだった。 

 

 さて、小谷監督作品『フリーダ・カーロの遺品〜』だが、遺品を撮影するとはどんなことなのだろうか...

 

 かつて、生前遺影(生前のポートレイト)撮影に立ち会った際、写真が人やモノなど被写体の死を内包することを意識するようになり、そんな想いで街や人々にカメラを向けることも増えた。また、近年、スマートフォンの写真アルバムにその1枚を収めることで、これまで処分出来なかった身の回りのモノや、大切な人が残した品々を手放す人たちがいる。僕自身も、ニューヨークで引っ越しを繰り返す中、同じような行為をしたことがある。しかし、撮影したからといって目の前に存在するモノを葬ることなど出来る訳もなく、結果、そのほとんどを手放すことはなかった。

 そんなことを思い出しながら足を運んだ試写会であったが、フリーダの遺品撮影が進んでいくと、彼女が愛用していたテワナ(ドレス)が、メキシコ、オアハカ州の人々が現在も着用している民族衣装であることがわかってくる。それは、母から子へ、そして孫へと、魂と共に受け継がれるドレスであり、そのことの方が、大きく僕の心に触れて来たのだ。小谷監督のカメラも、遺品撮影やフリーダという記号から、民族のアイデンティティーとも言うべき、そのドレスへと向かっていくようにも感じられた。

 

  本来、撮影機材の話をするのは好きではないが、やはり写真関係者にとっては、この遺品撮影でどんな機材やフィルムが使われたのか、気になるところだろう。

 スクリーンからは、ニコンF3ボディ(注1)に、55ミリのマクロレンズが装着されていることがわかる。そして、コダック製のネガカラーフィルムを使用しているのではないかと思われる。写真は、デジタルで撮影するか、フィルムで撮影するかでは依然として仕上がりに大きな異なりがある。もっと言うならば、ポジフィルム、ネガフィルムのどちらを選択するかによって、ライティングなどでは調整することが出来ない、微妙なニュアンスが現れてくる。映し出されたニコンF3の露出設定はオート。もし、ネガカラーフィルムを使用しているとすれば、ラティチュード(注2)によってこれも可能であろう。そして、このフィルムの特性としての柔らかいトーンと穏やかな発色が期待出来る。また、背景が白ではあるが、特記すべき道具は使用されていない為、写真は更に柔らかさを益すことになる。

 

 映画の中では、フリーダの作品も紹介されている。彼女が残した作品の大半は自画像であり、葛藤と共に描き出したであろうと思われる自身の姿が、死後50年の時を経て公開された遺品と共に、多くのことを語りかけてくるようだ。リベラはフリーダのテワナ姿を好んでいたという。フリーダ・カーロとディエゴ・リベラ、衝撃を受けた二人の愛の形だが、10年の海外生活を経て、いま僕はそれに共感しはじめている。

 

(注1)ニコンF3 : 1980年、発売。電子制御式シャッター、絞り優先AEを搭載。F4(1988年)、F5(1996年)が発売されて以降もF3は姿を消すことなく、このシリーズでは最長の20年に渡って製造された。

(注2)ラティチュード : フィルムなどが再現できる露光の範囲。ネガフィルムはラティチュードが広く、ポジ(リバーサル)フィルムやデジタルカメラのデータは狭い。一般に、撮影に於いてはラティチュードが広いネガフィルムの方が扱い易いとされる。

 

2015.7.30

 「シューシュー」、「カンカンカン」、 

ニューヨークではこの時期になると、こんな音が鳴り響く。

 東京のような比較的温暖な環境で育った僕には、ニューヨークの冬は本当に身に堪える。よく晴れた日に、青空の中を颯爽と通り抜けて行くあの飛行物体を見かけると、「あぁ、あれに乗ってどこか暖かい所へ行きたい」と、いつも思う。

 

 日本に住んでいた頃には、久しく手袋なんてものを使った記憶はなかったが、日中でも氷点下が続き、大雪も降るニューヨークの冬にはマフラーと共に欠かせない。しかし、そんな都市だからこそ、とても素晴らしいシステムが普及している。真夜中の「カンカンカン」という激しい音に慣れるまでは、何度も、「ビクッ」とさせられたが、この設備のお陰で、部屋中どこへ行っても暖かい。キッチンへ行こうが、バスルームへ行こうが、空き部屋までも常に同じ室温だ。旭川出身の友人が、「実家の床暖房もこんな感じ」とは言っていたが、かつてどこかで観た映画かTVドラマの主役たちのように、真冬に家の中を短パンとTシャツでウロウロ出来るのはとても快適で、何とも言えない幸せが感じられる瞬間だ。「シューシュー」というスチームの音でさえ、心地よく聞こえてくる。

 

  今年のはじめ、旅行者から置きみやげにもらった「ユニクロ」のタイツを試着してみたのだが、ぴちぴちで何とも気持ち悪く、しばらくは使用しなかった。しかし、マイナス15度を記録するようなニューヨークの冬、一度履いて外へ出たらこれがやめられない。なぜ、この何年間も「寒い、寒い」と言いながら真夏と同じジーパンを履いて撮影に出かけていたのだろう、そう後悔させられた。そんな厚着をして外出せねばならないニューヨークだが、家に帰れば部屋はヌクヌク、すぐに裸同然になれる。だからこそ、こんな極寒の街でもやっていけるのだ。

 ニューヨーク市には、冬の間、(アパートのオーナーは)外気温が一定の温度以下になった場合、室温が20度になるように暖房を稼働させなければならない、という条例がある。また、一年を通してお湯が出るようにもなっている。多くの場合、ビルの地下室にボイラーが置かれ、各部屋に鉄管で繋がれたラジエーター(放熱器)へスチームを送る暖房システム、セントラルヒーティングを使用している。ラジエーターは、リビングにもキッチンにも、バスルームにまでも設置されている。至ってシンプルな構造だが、これが壊れたりすると日本のような素早い対応を期待するのは難しく、修理の数日間はヒーターがつかないなど、悲惨なことになるのだ。中には、経費を節約するためにボイラーの温度設定を低めにするなど、悪質なオーナーも存在する。その点、僕のアパートは設定温度が高いのか、誰が来ても、「ここは暖かいね〜」と言うほど、快適なのだ。

 

 「ニッポンの冬(家の中)は、つらいよ」。再三に渡り、ニューヨーク経験のある友人からそうは聞かされていたが、久し振りのニッポンの冬は本当にキツイ。ホットカーペットの上や、ファンヒーターの前から動くことが出来なくなってしまう。しかし、思い起こせばロンドンで借りていた部屋は寒かった。どこかのアパートのオーナーのように、電気代が高いからとセントラルヒーターの設定温度は低く、稼働時間も極めて短い。朝は、9時頃からしか作動せず、夜は8時には止められてしまう。お屋敷とはいえ、個人宅の屋根裏を借りていた為、例え、市の条例があったとしてもここには及ばない。同じような境遇の友人は、あまりの寒さに部屋の中でも一日中ダウンジャケットを着ているという状態だった。そう思ったところで、あのセントラルヒーターのヌクヌクを知ってしまった身体は、もうどうにも言うことを聞いてくれない。

 

 日本には、「冬の寒さは、ある程度は我慢せよ」みたいな雰囲気があったように思うし、人感センサー付きの優秀なエアコンも普及し始め、家全体を温めたいだなんて、贅沢以外の何モノでもないと言われてしまいそうだ。

 

 ところで、置きみやげにいただいた「ぴちぴちのタイツ」だが、後に女性モノのLサイズだということがわかった(笑)。

 

2015.11.2

 ​ニューヨークでも、毎年結構な雪が降る。その度に都市の交通は麻痺するのだが、東京でも「多くの通勤客が駅構内に入ることが出来ずに、長い列をなしている」という朝のニュースを聞き、「こんなにも雪に弱かったのか」と驚かされた。

 

 夕方という時間帯もあってか、新宿駅はやや混雑していた。数本の列車を見送ることにしたのは、以前、日本の友人から「東京で列車に乗る時には、両手を挙げろ」とメールが届いたことを思い出したからだ。ここ数年、鉄道各社が女性専用車両を増やし、誤って通勤時間帯にこの車両に乗り込んでしまった時には、濡れ衣を着せられない為にもこの行為が必須だというのだ。

 

 「冗談だろう」と思っていたが、「あの一駅がどんなに長かったかわかるか」と、女性陣から向けられた白い目の様子を語る友人の表情を見てからは、僕も女性専用車両になる時間帯以外でも、このステッカーの貼られた車両には怖くて乗れなくなった。

 

 「ニューヨークに痴漢はいない」、在留邦人からも、また、アメリカ人からもそう聞いていた。実際、ニューヨークのメトロの混雑率は東京よりもはるかに低いし、日常から”ハグ”と共に挨拶を交わす文化であるだけに、他者との接触には気を付けているであろう、という印象もあった。しかし、列車によっては人々が車両の内側まで詰めてくれない(扉付近に集中する)という理由もあってか、通勤時間帯はかなり密着することもある。こうした時、一部のニューヨーカーは無理をせず、次の列車が来るまで待つ。では、ニューヨークには、本当に痴漢がいないのかと言えば、そんなことはない。6-7年前のことだが、友人のエミーは、動きが取れなくなった車内で男性に下半身を押し付けられるという被害に遭っている。それ以前からも、痴漢被害を受けていたそうだ。また、昨年末には、身体に触ったり、盗撮するなどのメトロ内に於ける性犯罪が増加傾向にあることをニューヨーク市警が発表している。

 

 両手こそ挙げなかったが、周辺の乗客をよく確認し、利き手はしっかりと手すりを掴んで目的地までの時間を堪えた。

 今回観た映画は、『袴田巌 夢の間の世の中』。

 

 1966年、静岡の味噌製造会社専務一家4人が殺害され、放火されるという事件が発生した。当時この会社に勤務していた”元プロボクサー”(日本フェザー級6位 / 年間19戦日本最多記録保持者)の袴田さんが逮捕され、拷問による取り調べによって自白に追い込まれてしまう。世にいう“袴田事件”だ。“ボクサー崩れ”という偏見に基づく捜査だったのではないかとボクシング界も動き出し、裁判では一貫して無罪を主張したが死刑が確定してしまう。その後、再審請求を続け、2014年3月に静岡地裁が再審開始を決定した。同日、「証拠は捏造の疑いがある」、「これ以上の拘留は耐え難いほど正義に反する」として、48年振りに自由の身となった。

 

 この映画は、釈放直後から浜松の実姉、秀子さんと暮らす袴田さんの日常を追ったドキュメントだ。監督は、袴田さんの行き来する妄想と現実の世界を記録すると同時に、秀子さんの袴田さんへのコミュニケーションの取り方にもカメラを向けた。「冤罪にされてたまるか」、そんな一心で共に戦い続けてきた秀子さん。彼女の誕生日には、多くの仲間が駆けつけてきた。「こんなお祝いをしてもらったのは初めて」、そう語る彼女もまた、48年振りに自分の人生を取り戻しつつあるのだろう。いまなお、収監時同様にひたすら家中を歩き回る袴田さん。その姿は失われた時を思わせるが、カメラは時折起こる拘禁反応(強制的に自由を奪われた人が示す人格の変化)状態も映し出す。ところどころに獄中で書かれた日記や手紙の言葉が盛り込まれ、かつて袴田さんと同じ拘置所に収監されていた無罪の“仲間”たちと語り合う姿も見られる。WBC(世界ボクシング評議会)からは、“名誉チャンピオンベルト”が贈呈され、リング上でガッツポーズをとった。それら袴田さんの記憶が、時空を超えて観る者に突き刺さってくる。

 

 ニューヨークでも、たびたび「冤罪」のニュースを目にする。1990年、メトロ駅構内に於いて、少年たちによる殺人が発生し、当時18歳のJohnny Hincapieがその一人として逮捕された。25年間に渡って収監されていたが、昨年行われた再審で有力な証人が現れ、晴れて無罪となった。

また、1989年、友人を銃で射殺したとされたJonathan Flemingが、主張し続けてきた携帯電話の請求書によるアリバイが確認され、24年間に及ぶ収監から釈放されている。アメリカでは、その保証金額も大きく取り上げられた。ニューヨーク市は彼に対し、$6.25ミリオン(約7.8億円)を支払うことで和解したとされる。

 一昨年にも、1989年にセントラルパークをジョギングしていた女性を襲ったとして、10代の黒人とラテン系の男性5人が収監され、後に別の容疑者が浮上した冤罪事件として、ニューヨーク市は5人に対し、$40ミリオン(約41億円)を支払うことで和解したとのニュースがあった。

 

 日本ではどうなっているのか。

 

 刑事補償法(第四条)によって、冤罪被害者に対し、「一日千円以上一万二千五百円以下の割合による額の補償金を交付する」とされる。アメリカの補償額とは比較にならない数字だ。弁護費用や、支援団体へのお礼だけを考えても、到底、妥当な額とは言えないだろう。また、無罪が確定した人に対し、マスコミがその補償金の使い道や釈放後の生活を干渉、批判したという歴史もある。

 

 「冤罪」は、その事件内容に関わらず、当人と同時に身近な人の人生までをも奪ってしまう。そのような悲劇を繰り返さない為にも、捜査は勿論のことだが、裁判員制度に示唆される冤罪の可能性も考慮し、更に慎重な審理が行われることを願うばかりだ。

 

 世界の中でも再審請求の承認率が極めて低いといわれる日本。やっとのことで48年の収監から釈放された袴田さんだが、検察庁が即時抗告した為、現在も死刑因のレッテルは貼られたままだ。

 

 この原稿を書いている最中、「痴漢の疑いをかけられた男性が、線路に飛び降り車両と接触した」というニュースが流れた。痴漢冤罪に遭わない為に「男性専用車両」を切望する声も多いと聞くが、スペインやニューヨークに於いて、心の性別が異なる同性からの被害を受けそうになった経験がある僕は、そのような車両に乗るにも勇気が必要だ(苦笑)。

 

2016.1.20

 先日、某デパートに店舗を構えるメガネ店に、母の“リーディンググラス”を作りに行った。いわゆる老眼鏡のことだが、近年はパソコンやスマートフォンの長時間使用による若年層の老眼が急増しているようで、英語表記にすることでとても馴染み易いイメージになったと思う。

  事前にウェブサイトで商品と価格を調べ、本社にも品揃えを確認するなど、母を連れて何件ものメガネ店を見て回らなくても済むように慎重に店を選んだ。渡邊さんという方が担当になり、すぐに検眼がはじまった。僕は検眼機に近いシートに座り聞き耳を立てていたが、丁寧な説明と、母の話にもきちんと受け答えをしてくれている様子に、ホッとした。学校の健康診断によって、小学生の頃からメガネを掛ける羽目になってしまった僕は、これまでにかなりの数の眼科医やメガネ・コンタクトレンズ店を訪れた経験があり、そこでたびたび残念な思いをしてきたからだ。フレーム選びの際にも、渡邊さんの的確なアドバイスがあり、決まったら近くの店員さんに声をかけるようにとのことだった。しかし、母はこのタイミングでメガネとは関係のない話を切り出した。このような量販店の店員さんは忙しい、「面倒くさい客だ」「迷惑だよ」と思ったのだが、すぐに母が話し出した理由に察しがついた為、それを遮ることはしなかった。

 

 「家の中で気軽に使いたいから何でもいい」と言っていたはずだったが、実際には掛け心地か、デザインか、散々悩んだあげくに母はフレームを選び出した。すぐ近くに他の店員さんもいたが、渡邊さんの手が空いた隙にフレームを渡すように母に促した。デパート内で時間を潰し、仕上がり予定よりもやや早めに店に戻った。すると、渡邊さんが母のところまで来て、「すみません、お渡し出来るのは予定時間と同じ頃になってしまいます」と知らせてくれたのだ。メガネの掛け心地を確認する際にも、座っていた母の目線まで身をかがめ最後まで誠意の感じられる接客だった。

 

 店を出ると、すぐに母から渡邊さんの対応への言葉が飛び出した。僕も、一時帰国ごとに感じる日本のサービスの変化が気になっていた為、帰路はこの話で盛り上がった。

 

 ここ数年、滝川クリステルさんの国際オリンピック委員会総会時でのアピールのお陰なのか、ニューヨークでも日本の“おもてなし”が話題に上る。武士道の精神と共に、日本人の美徳として誇りにも思うが、いつの頃からか、“おもてなしの心”が込められているはずの日本の“接客”イメージは、コンビニエンスストアー店員の態度の悪さや、高級料亭の食べ残し料理使い回し事件など、多くの業界からのサービス低下を嘆く声によって、形ばかりになりつつあるのではないかと感じていた。ただし、コンビニエンスストアーに於いては近年そのような印象はなく、利用者の“期待し過ぎ”という問題もあるのかも知れない。

 

 初めて訪れたヨーロッパの店で、当時の日本とは異なるその様子に驚かされた。どの店に入る際にも、互いに「ハロー」と挨拶をし、買い物をせずに店を出る場合でも「サンキュー」と笑顔で言葉を交わしていたからだ。実に心地よい習慣だと感じた。ニューヨークの衣料品店などでも、「お手伝い出来ることはありますか?」と店員さんが声を掛けてくることが多いが、これに対し、「大丈夫です」「見ているだけです」と返事をすれば、その後は放って置いてくれるので、「とても快適だ」と友人と話すことがある。

 こんな出来事に遭遇したこともあった。ある日、マンハッタンのカフェで友人と待ち合わせをしていると、彼女は新調した真っ赤なフレームのメガネを掛けてきた。小柄でやや丸顔の彼女に、そのメガネはとても良く似合っていた。一番小さいトールサイズ(アメリカにはショートサイズがない)のコーヒーを注文すると、そのカフェの店員さんは、「素敵なメガネね、あなたにぴったりよ」「グランデにしといたわ」と、サイズをひとつ大きくしてくれたのだ。世界展開しているシアトル発祥のカフェであり、日本では考えられないことではないだろうか。

 

 またある夏の日のこと、お気に入りのブランド店でサングラスを購入しようとすると、店員さんにソーシャルセキュリティーナンバー(注1)所有の有無を尋ねられた。ニューヨークには、このナンバーを告げるか、学生証を提示する(または会員になる)ことで、その場で15% 程度の値引きを受けられる店が幾つも存在する。残念ながら僕はこのナンバーを持っていなかったが、彼女は、「特別ね」と言って自身のポケットから何かを取り出して値引きをしてくれたのだ。

 

 一方で、こう語る友人もいる。「呆れてしまうのは、ドラッグストアなどの店員が、携帯電話で家族や恋人と話をしながら平然と接客することだよね。人種差別による低賃金の為に、怠惰になってしまった一部の人たちの何でもありの対応かも知れないけれど...」。確かに僕にもこのような経験があり、複数のレジがある店では気持ちの良い買い物をする為にレジを選ぶこともある。

 

 多種多様な人種が生活しているニューヨークでは、接客のあり方も様々で、残念な思いをすることもあるのだが、非常識なお客さんがいることも事実であり、「色々とあるだろう」という思いからかそれに慣れてしまい、むしろ微笑ましい光景に巡り合う確率が日本よりも多いような気がしている。

 今回、母と共に訪れたような流行りのメガネ店の評判をインターネットで調べてみると、「店員の知識や態度、そして商品もその価格レベルであり、お奨め出来ない」という書き込みが実に多い。そもそも、検眼については眼科で処方箋をもらうべきだという考えがあるが、たとえ視能訓練士や認定眼鏡士であったとしてもそのやり方に疑問を感じることも多く、結局は「人だよなぁ」と僕は思っている。無論、初めてメガネを作る人がこのようなリーズナブルな価格の店を利用する際には、事前にメガネについての勉強をしておくことが望ましいだろう。しかし、半年や一年間の保証期間中には無料でレンズを交換してくれるなど、気軽に使うメガネを求めるならば、実に素晴らしいシステムであることに違いはない。

 

 帰宅後、このメガネ店の店名とデパートの住所を書いたメモを母に渡した。僕がまだ小学生の頃、多分同じデパートだったと記憶しているが、食品売り場の店員さんの対応に感動した母が、店長さん宛に葉書を書いていたことを思い出したからだ。

 

 母は、「駄菓子屋は商売ではなく、しつけの場だ」と語る老師とも呼ぶべき方(駄菓子仕入れ先)との出会いによって、その方が亡くなるまで家の片隅で駄菓子屋を営んでいた。きっと、食品売り場で感じた“おもてなしの心”も、その教えと同じように一通の葉書から広がって欲しいと願ったのだろう。そんな母が、検眼を担当してくれた渡邊さんにした話とは、苗字の“ワタナベ”に複数存在する「邊」の異体字についてだった。その夜、“リーディンググラス”を掛けて何度もその文字を辞書で確認しながら葉書に向かっている母の姿があった。 

 

2016.3.7

 

(注1)ソーシャルセキュリティーナンバー : 徴税の為の個人特定を目的に発行され、現在はアメリカ国内での国民識別番号、身分証明番号にもなっている。

 「アリが亡くなった」、というニュースを聞いて、プロレスファンの方ならば、アントニオ・猪木がリングの中央に寝転んだままの状態でキックを放ち続け、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」とも言われた身長190cmものアリの動きを封じ組めた、あの名シーンを思い浮かべることだろう。

 しかし僕は、子供の頃によく遊んでくれた親戚のおじさんの訃報を知った時のような、何ともいいがたい気持ちに襲われ、頭の中は真っ白になった。

 

 僕の父は、アントニオ・猪木が率いる「新日本プロレス」の大ファンであった。そのため、幼年期の頃からよくプロレス中継を一緒に観ていたし、新日本プロレス全盛期の象徴のように日本に呼び寄せられたアリに対して、特別な親近感を覚えていたようだ。そして、少年時代の僕のテーマ曲の一つとも言えるアントニオ・猪木の「イノキ・ボンバイエ」、あれはアリが自身のテーマ曲である「ARI BOM BA YE / アリ・ボンバイエ」を “格闘技世界一決定戦” 後に猪木に贈ったとされているのだ。

 

 一方、後に知ったことではあるが、ベトナム戦争時の徴兵拒否により、長期に渡って政府と闘ったアリへのリスペクトのような想いも影響しているだろう。

 そのアリに、渡辺澄晴氏(当協会名誉会長)は会ったことがあるというのだ。1962年9月15日、当時ニコンに勤めていた渡辺氏は、ニューヨークに赴任した。間もなく、シカゴで世界ヘビー級チャンピオンのフロイド・パターソンと、チャールズ・ソニー・リストンとのタイトルマッチが行われることになり、渡辺氏は特設リングの真上に5台のカメラを設置するという仕事の指揮を取った。試合は、あっという間で、挑戦者のリストンが、チャンピオンのパターソンを1ラウンドでリングに沈めた。

 

 2年後の1964年、そのチャールズ・ソニー・リストンは、モハメド・アリに王座を奪われてしまう。そして、アリは、アントニオ・猪木との「格闘技世界一決定戦」の為に、1976年に来日した。

 この時、渡辺氏の周辺から、「アリを会社に招待して、ニコンのカメラをプレセントしよう!」という話が持ち上がった。「3億円のファイトマネーのアリが、来るとは思えない」という異論もあったのだが、それに反してアリ側はあっさり快諾。アリがニコンのファンだった、との話もあるが、当時のアメリカでニコンがどれだけの評価を受けていたのかが伺い知れる出来事だ。そして、ニコンカメラの組み立て工場へアリを招待することが決まると、社員たちはパニック状態になったという。

 

 いまでも、試合前のアリと猪木の記者会見シーンをよく覚えているという父だが、何と僕が生まれた時にも、自宅の居間でプロレス中継を観ていたらしい。それは、ジャイアント馬場の「16文キック」が炸裂した瞬間だったというが、まさか、僕の名前の由来は16 “文” キックではないと信じたい。

 

2016.6.7

ニューヨーク物語30 棚井文雄

モハメド・アリと渡辺澄晴と僕の三つ目の坂

ニューヨーク物語29 棚井文雄

駄菓子屋とおもてなし

ニューヨーク物語28 棚井文雄

あの空の下で

ニューヨーク物語27 棚井文雄

ニューヨークで覚えた「冬の贅沢」

ニューヨーク物語26 棚井文雄

フリーダ・カーロの遺品

ニューヨーク物語25 棚井文雄

工藤一義と厳島神社

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葛藤

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恋の季節

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ニッポンの「恋しい」もの 

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ワシントン広場の夜

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ニューヨークの美味しい「ふゆ」が、

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「岩崎勇」という生き方

ニューヨーク物語 9 棚井文雄

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ニューヨーク物語 8 棚井文雄

“ハイブリッド写真作家” in NYC

ニューヨーク物語

プロジェクトオーナーの写真家・棚井文雄氏が、2011年から  (社)日本写真作家協会広報誌に掲載してきました「ニューヨーク物語」を当サイトで引き続き連載いたします。

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